兵庫運河の今昔物語

最終更新日:2024年8月29日

ここから本文です。

兵庫運河とは

兵庫運河は、新川運河、兵庫運河、兵庫運河支線、苅藻島運河、新湊川運河で構成されており、水面積は合計約34ヘクタールと、日本最大級の規模を誇る運河です。

名称
位置
延長(m) 幅員(m) 水深(m) 水面積(平方メートル)
兵庫運河計 - 6,470     337,300
兵庫運河 兵庫区高松町~南逆瀬川町 1,660 40~130 2.0~2.5 114,500
兵庫運河支線 長田区東尻池町~梅ケ香町 760 15~25 2.0~2.5 5,700
新川運河 兵庫区島上町地先~今出在家町 1,530 25~110 3.5 57,700
苅藻島運河 長田区苅藻島町 2,200 50~140 3.5 150,000
新湊川運河 長田区苅藻通 320 25~45 2.0~2.5 9,400

兵庫運河の平面図(PDF:46KB)

兵庫運河の歴史

明治の時代(開削~)

奈良時代以来、兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ港を中心に栄えてきましたが、和田岬が船の難所で船の被害が大きかったことから、兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画されました。1874(明治7)年に着工しましたが工事は難航し、1875(明治8)年に船舶の避難地として新川運河だけが完成しました。
その後、八尾善四郎などの尽力により、和田岬を迂回するバイパスとして1896(明治29)年に着工され、1899(明治32)年12月に兵庫運河全体が完成しました。このように幾多の苦難を乗り越えて、民間活力によりこの一大事業が成し遂げられたのです。
開削から100年以上が経った兵庫運河は、それ自体が貴重な歴史資源でもあるのです。

明治時代の兵庫運河の画像
写真 神戸市公文書館提供

昭和の時代(貯木場としての利用)

昭和初期には、運河周辺が一大商工業地域としてにぎわい、原木で輸入した木材の保管場所として活用が盛んになりました。
貯木場として使われていたころの様子

現在(憩いの空間)

時代の変化とともに、木材の輸入方法が原木からコンテナによる製材へ変化したことから、貯木水面への木材入庫が減少し、2005(平成17)年には、貯木場としての水面利用が終わりました。
現在は、当初開削された時の目的から大きく機能転換を図り、市民に親しまれる運河沿いの空間、散策道として、プロムナードやライトアップの整備を進めています。
 

新川運河キャナルプロムナード

現在の兵庫運河

参考資料

近代土木遺産兵庫運河(神戸市兵庫区役所)(PDF:358KB)

これからのまちづくり

2009(平成21)年5月、兵庫運河周辺の地域、周辺企業、学識経験者、行政が参加した、兵庫運河の魅力再発見プロジェクト協議会から「兵庫運河周辺地域の活性化に関する提案」が市長に提出されました。
運河の親水性や回遊性の向上などの提案を実現すべく、2009(平成21)年7月に「兵庫運河活性化会議」を設置し、2012(平成24)年12月には兵庫運河周辺地域のさらなる活性化に向けて兵庫運河周辺地域のまちの将来像を取りまとめました。
この将来像に基づき、兵庫運河周辺地域が魅力と活力に満ちた地域となるよう、プロムナードやライトアップの整備を進めていきます。

キャナルプロムナード夜景

お問い合わせ先

都市局未来都市推進課