最終更新日:2024年8月30日
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『平家物語』には、清盛の遺体は愛宕で火葬にふされ、遺骨は側近の円実法眼(えんじつほうげん)が首にかけて摂津の国に下り、経ヶ島に納めたと書かれています。経ヶ島とは、清盛が大輪田泊(おおわだのとまり)(現在の神戸市兵庫区の兵庫港あたりにあった港)を改修した時に築いた島です。
兵庫区切戸町の十三重石塔「清盛塚」は、墳墓をあらわす「塚」がつくように清盛の墓と伝えられてきました。また、鎌倉幕府の執権・北条貞時が清盛の供養のため建立したという伝承が江戸時代前期より流布していました。
大正12年、「清盛塚」は神戸市電の軌道敷設にともなう道路拡張工事のため、約10メートル北東に移転し現在の地になりました。移転時の調査によって墳墓でないことが確認されています。
十三重石塔には弘安9年2月という年月が刻まれています。西大寺の叡尊(えいそん)が弘安8年(1285)8月14日に兵庫で「石塔供養」に臨んだという記録があり、近年の研究ではこの石塔が「清盛塚」と呼ばれる十三重石塔ではないかといわれています。
一方『吾妻鏡』には、遺言によって遺骨は播磨国山田の法華堂に納められたと書かれています。播磨国山田は、現在の神戸市垂水区西舞子町の山田川付近にあたり、明石海峡を望む景勝の地です。ここは平氏が何度も船から眺めた地であり、平氏にとって海陸の拠点の一つであったと考えられています。
「経ヶ島」か「山田の法華堂」か、皆さんは清盛がどちらの地に眠っていると思いますか。
なお、切戸町の「清盛塚」は地元で大切に供養されています。いつ頃どのようにして十三重石塔が清盛の塚と伝えられるようになったのかにも興味がひかれます。清盛は兵庫の恩人という思いがあったことは確かでしょう。