最終更新日:2023年2月10日
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神戸市兵庫区南部の兵庫津の地域は、平安時代、大輪田泊と呼ばれました。この港は東南からの風波をまともにうけて停泊が危険でした。そのため、朝廷は弘仁3年(812)以来しばしば港の改修を行いました。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3年(1173)に私財を投じて改修を行いました。泊(とまり)の前面に防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたのです。この島が経ヶ島(経の島)と呼ばれています。なお、築かれた詳しい場所はわかっていません。(着工年については『平家物語』の延慶本・長門本、『山槐記』等よりの見解です)
清盛は治承4年(1180)には、国家的事業として大輪田泊の大規模な整備を計画しましたが、源平争乱によりほとんど実行されなかったと思われます。
経ヶ島築造は難工事であったため、経石や人柱をモチーフとした説話が生まれました。
『平家物語』巻六に、暴風雨と大波で工事は難航したが、清盛は人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから「経の嶋」と名付けられた、とあります。
時代を経るにつれ、伝承は脚色され変容していきます。室町期の幸若舞『築島』には、捕らえられた人柱のひとりである国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、30人の人柱の身代わりとなってお経と共に海へ沈む松王という少年などが登場します。
また、『福原鬢鏡(ふくはらびんかがみ)』(1680)、『摂陽群談(せつようぐんだん)』(1701)、『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』(1796)、『播州名所巡覧図絵(ばんしゅうめいしょじゅんらんずえ)』(1803)など江戸時代の地誌にも経ヶ島について書かれています。
『摂津名所図会』には、松王小児(松王健児(こんでい)、松王丸ともいわれる)について次のように書かれています。「埋め立てても大波が土石をゆり流してしまう。竜神の怒りをなだめるため30人の人柱と経石を海底におさめよとの占いがでた。平相国(清盛)は生田の森に関をすえて往還の旅人を捕らえさせたが、近隣の村民がこれを歎いて訴えるので兵庫の者はこの難を免れた。今のことわざに『兵庫の者なり御免あれ』というのはこの由縁である。3ヶ月かけて30人をとりこにしたが、親族が群れ来てその悲嘆は尋常ではなかった。清盛はこれを悼んで延期すること5ヶ月に及んだ。そこへ讃州香川城主大井(おおい)民部(みんぶ)の嫡子松王小児17歳が進み出て、身代わりに自分ひとりを沈めるように願い出た。清盛は大いに心を動かされる。ついに、経石と松王小児を海に沈めて島は成った。沈めた所に建てられたのが築島寺(来迎寺)である。(要約)」
兵庫区島上町の来迎寺には、「松王小児入海」の石塔があります。
『西摂大観(せいせつたいかん)』下巻(明治44年)に経島山来迎寺の縁起が載っており、明治期の写真も見ることができます。
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