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こうべキッズ百科:歴史(できごと1)

最終更新日:2019年11月1日

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一の谷(いちのたに)の合戦の(がっせん)

平清盛(たいらのきよもり)の死後(しご)、いったん九州(きゅうしゅう)にのがれていた平家(へいけ)は四国(しこく)にうつり、やがて兵庫区(ひょうごく)の福原(ふくはら)に陣(じん)をおいて京都(きょうと)を奪(うば)おうと狙(ねら)っていました。

1184年(ねん)寿永(じゅえい)3年2月、源氏(げんじ)が奇襲(きしゅう)(=相手(あいて)の気(き)がつかない時(とき)に急(きゅう)にせめること)をして平家をせめた戦(たたか)いが、「源平一の谷(げんぺいいちのたに)の合戦(がっせん)」です。

当時(とうじ)の平家の陣は、東(ひがし)は中央区(ちゅうおうく)の生田(いくた)の森(もり)のあたりから西(にし)は須磨区(すまく)の一の谷までといわれていて、源範頼(みなもとののりより)は東からせめ、源義経(みなもとのよしつね)は北(きた)から進すすみ、今(いま)の社町(やしろ)(神戸市の北西ほくせいにある)三草山(みくさやま)をおそい、誰(だれ)も思(おも)いもよらない奇襲(きしゅう)をかけました。

この奇襲が、山(やま)から海(うみ)への道(みち)なき道を一気(いっき)に下(くだ)った、ということで有名(ゆうめい)な「鵯越(ひよどりごえ)の坂落(さかおとし)(または逆落さかおとし)」です。

この坂落としの場所(ばしょ)については、いろいろな言いい伝つたえがありますが、北区(きたく)から兵庫区にかけての鵯越のあたりから明泉寺(みょうせんじ)、夢野(ゆめの)、長田方面(ながたほうめん)へ、中央(ちゅうおう)を突破(とっぱ)したという説(せつ)と、鵯越の途中(とちゅう)から、白川(しらかわ)、多井畑(たいのはた)をへて、鉄枴山(てっかいさん)からの道のない急(きゅう)な斜面(しゃめん)の須磨(すま)一の谷からおりてせめた、という2つの説(せつ)があります。

こうして敗(やぶ)れた平家は、四国(しこく)の屋島(やしま)に逃(のが)れましたが、この戦いで多(おお)くの人(ひと)がなくなり、やがて滅(ほろ)びていきます。

一方(いっぽう)、源氏一番(いちばん)の功労者(こうろうしゃ)(手柄(てがら)を立(た)てた人)である源義経も、後(のち)には悲劇的(ひげきてき)な人生(じんせい)を送(おく)ることになりました。

源平一の谷の合戦にゆかりのある史跡(しせき)が、須磨区、長田区などにたくさん残(のこ)っています。

湊川(みなとがわ)の戦(たたか)い

「湊川(みなとがわ)の戦い」というのは、鎌倉幕府(かまくらばくふ)がほろびた後(あと)の、南北朝動乱期(なんぼくちょうどうらんき)の中心的(ちゅうしんてき)な戦いのことです。

1333年(元弘(がんこう)3年)に、楠木正成(くすのきまさしげや)赤松円心(あかまつえんしん)と足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)らの活躍(かつやく)によって鎌倉幕府の北条氏(ほうじょうし)を倒(たお)した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、「建武(けんむ)の新政(しんせい)」を始(はじ)めました。

ところが、公家(くげ)ばかりを大事(だいじ)にするこの政治(せいじ)に不満(ふまん)をもった足利尊氏は各地(かくち)の武士(ぶし)たちを集(あつ)めて、後醍醐天皇を倒(たお)すために京都(きょうと)を攻(せ)めようとしますが、西宮(にしのみや)・打出(うちで)の合戦で楠木正成らに負(ま)けて、いったん九州(きゅうしゅう)へにげます。

尊氏が、九州あたりの武士を大勢(おおぜい)したがえ、力(ちから)をつけて再(ふたた)び京都を攻めようとしたので、1336年(延元えんげん1年)5月24日、負ける戦いであることを覚悟(かくご)しながら、楠木正成はわずかの兵(へい)をつれて兵庫へやってきました。そして、次(つぎ)の日ひ、5月25日、わずか2万(まん)ほどの楠木正成・新田義貞の軍(ぐん)と、陸(りく)と海(うみ)からおしよせてくるやく50万とも100万ともいわれる足利軍が戦うことになりました。

高たかさ90メートルの会下山(えげやま)に陣をはっていた楠木軍は、大勢の足利軍に囲(かこ)まれ、6時間(じかん)も戦ったすえに、ついに力つきました。そして、湊川の北にある民家(みんか)で、弟(おとうと)を含(ふく)めた一族(いちぞく)28人と自(みずから)命(いのち)をたちました。

この戦いの後(あと)、足利尊氏は室町(むろまち)幕府をつくり、北朝(ほくちょう)をたてました。一方(いっぽう)、湊川の戦いで負けた後醍醐天皇は吉野(よしの)(吉野・奈良県(ならけん))に逃(のが)れて南朝(なんちょう)をたてました。これが南北朝(なんぼくちょう)時代の始(はじ)まりです。

中央区にある「湊川神社(じんじゃ)」は、楠木正成らをまつるために明治(めいじ)になってから建(た)てられました。