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最終更新日:2019年11月1日
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神戸(こうべ)の歴史(れきし)は、垂水区(たるみく)の大歳山(おおとしやま)から出土(しゅつど)した石器(せっき)などから、旧石器(きゅうせっき)・縄文時代(じょうもんじだい)にさかのぼることができます。
2000年(ねん)あまり前(まえ)にアジア大陸(たいりく)から稲作(いなさく)や金属(きんぞく)器がつたわり、弥生(やよい)時代の新(あたら)しい生活(せいかつ)がはじまりました。1964年(昭和(しょうわ)39年)、灘区(なだく)桜ヶ丘(さくらがおか)で発掘(はっくつ)された多(おお)くの銅(どう)たく、銅かなどがその時代を物語(ものがた)っています。
1500年(ねん)ほど前(まえ)になると、各地(かくち)の豪族(ごうぞく)は古墳(こふん)を築(きず)くようになりました。中期(ちゅうき)のものとしては県下一(けんかいち)の大(おお)きさの五色塚古墳(ごしきづかこふん)がよく知(し)られていますが、いくつかの古墳から測量(そくりょう)・土木(どぼく)・金属細工(きんぞくさいく)などの技術(ぎじゅつ)が伝(つた)わっていたことがわかります。
やがて各地(かくち)の有力(ゆうりょく)な一族(いちぞく)をしたがえて、大和(やまと)(今(いま)の奈良県(ならけん))の政権(せいけん)が国土(こくど)を統一(とういつ)していきました。
文字(もじ)が使(つか)われず、書(か)かれた記録(きろく)のなかったこの時代のことは、伝説的(でんせつてき)な人物(じんぶつ)の活動(かつどう)や神話(しんわ)としてのちの世(よ)に伝(つた)えられました。
国土統一(とういつ)のころ大阪湾(おおさかわん)では、浪速(なにわ)(今(いま)の大阪(おおさか))の津(つ)をでた船(ふね)は、はじめ灘区(なだく)にあった敏馬(みぬめ)の浦(うら)によって西(にし)に航海(こうかい)していましたが、奈良時代になると船が早(はや)く進(すす)むようになったので、湊川(みなとがわ)の河口(かこう)の大輪田泊(おおわだのとまり)がにぎわい始(はじ)めました。
この航路(こうろ)や有馬温泉(ありまおんせん)の整備(せいび)、農業用水(のうぎょうようすい)のための長田(ながた)の蓮池(はすいけ)の建設(けんせつ)に、僧(そう)の行基(ぎょうき)が関(かか)わったと伝えられています。
※津...ふなつき場(ば)、港(みなと)
平安遷都(へいあんせんと)によって、大輪田泊(おおわだのとまり)は都(みやこ)と瀬戸内海(せとないかい)航路(こうろ)をつなぐ所(ところ)としてますます重要(じゅうよう)になり、遣唐使(けんとうし)に同行(どうこう)した最澄(さいちょう)や空海(くうかい)もこの港(みなと)を利用(りよう)したと伝(つた)えられています。市内(しない)を東西(とうざい)に山陽道(さんようどう)が通(つう)じていたことから、平安時代(じだい)には都(みやこ)の貴族(きぞく)が布引(ぬのび)きの滝(たき)や須磨(すま)をおとずれ、古典文学(こてんぶんがく)に神戸(こうべ)がえがかれ始(はじ)めます。
800年(ねん)あまり前(まえ)、平安末期(へいあんまっき)には、太政大臣(だじょうだいじん)になって間(ま)もない平清盛(たいらのきよもり)がたびたび神戸をおとずれ、大輪田泊を改修(かいしゅう)して宋(そう)(今の中国(ちゅうごく))との貿易(ぼうえき)を行(おこな)いい、わずか半年(はんとし)足(た)らずの間でしたが、福原(ふくはら)(現在(げんざい)の神戸市中央区(こうべしちゅうおうく)から兵庫区北部(ひょうごくほくぶ)に都をうつしました。
壇ノ浦(だんのうら)の戦(たたか)いで源氏(げんじ)は平家(へいけ)をたおし、1192年(建久(けんきゅう)3年)に鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開(ひら)きました。
このころから大輪田泊のあたりは町(まち)として発展(はってん)し、兵庫の津(つ)とよばれるようになりました。
600年近(ちか)く前になって、御醍醐天皇(ごだいごてんのう)が幕府を倒(たお)す動(うご)きを始(はじ)めたころは、兵庫の津はとても大事(だいじ)な港になっていました。建武(けんむ)の新政(しんせい)から室町(むろまち)幕府の時代への転機(てんき)、楠木正成(くすのきまさしげ)が戦死(せんし)した湊川(みなとがわ)の戦(たたか)いも神戸が舞台(ぶたい)になりました。南北朝(なんぼくちょう)を統一(とういつ)した足利義満(あしかがよしみつ)が始めた明(みん)との貿易(ぼうえき)も、始(はじ)めは兵庫の津が窓口(まどぐち)となり珍(めずら)しい文物(ぶんぶつ)が陸揚(りくあ)げされてにぎわいました。
室町幕府(むろまちばくふ)が弱(よわ)り応仁(おうにん)の乱(らん)が始(はじ)まると、その巻(ま)き添(ぞ)えで兵庫の津は焼(や)きうちされ、100年ほど港(みなと)は衰(おとろ)え、日本中(にほんじゅう)が戦国(せんごく)の世(よ)となりました。
やがて、中部地方(ちゅうごくちほう)から出(で)た織田信長(おだのぶなが)が天下(てんか)統一をめざし、中国地方を支配(しはい)した毛利勢(もうりぜい)と、神戸地方をめぐって争(あらそ)い、灘(なだ)も兵庫(ひょうご)も須磨(すま)も戦火(せんか)に巻(ま)き込(こ)まれることになりました。
海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)の鬼瓦(おにがわら) 出典(しゅってん):「新中央区歴史物語(しんちゅうおうくれきしものがたり)」
本能寺(ほんのうじ)の変(へん)の後(あと)、統一事業(とういつじぎょう)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に受(う)けつがれ、100年(ねん)あまりの戦国時代(せんごくじだい)は終(お)わり、このころには兵庫(ひょうご)の津(つ)も復興(ふっこう)し、兵庫は政治(せいじ)・経済(けいざい)の中心地(ちゅうしんち)になりました。
江戸時代(えどじだい)の兵庫は幕府領(ばくふりょう)となり、天下(てんか)の台所(だいどころ)大阪のとなりの港として栄(さかえ)、西廻(まわ)り航路による北前(きたまえ)船などによって北陸(ほくりく)などの物産(ぶっさん)も入(はい)り、北風家(きたかぜけ)や高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)のような商人(しょうにん)が活躍(かつやく)しました。
太平(たいへい)の世には旅人(たびびと)もふえ、西国街道(さいごくかいどう)もにぎわいました。
このころ、水戸光圀(みとみつくに)によって楠木正成(くすのきまさしげ)の立派(りっぱ)な墓(はか)がたてられました。また、六甲山系(ろっこうさんけい)からは御影石(みかげいし)が切(き)りだされ、川(かわ)の急流(きゅうりゅう)を利用した水車(すいしゃ)によって油(あぶら)しぼりや製粉(せいふん)業がおこって、灘地方(なだちほう)に素麺(そうめん)や酒造(しゅぞう)がさかんになりました。
幕末(ばくまつ)、欧米(おうべい)(ヨーロッパやアメリカ)の国々(くにぐに)(から開国(かいこく)の要求(ようきゅう)が強(つよ)まってきて、安政(あんせい)の仮条約(かりじょうやく)によって兵庫港が開港地とされ、その当時(とうじ)は小(ちい)さな寒村(かんそん)(まずしい村むら)にすぎなかった神戸に海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)がおかれ、外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)も建設(けんせつ)されることになりました。
西廻(にしまわ)り航路(こうろ)は、日本海沿岸(にほんかいえんがん)の港(みなと)から出(で)て、西(にし)へむかい、関門海峡(かんもんかいきょう)から瀬戸内海(せとないかい)をへて大阪(おおさか)へ、そこからさらに紀伊半島(きいはんとう)をまわって江戸(えど)(今(いま)の東京(とうきょう))に行(ゆ)く船(ふね)の道筋(みちすじ)のことをいいます。
この航路は、1672年(ねん)(寛文(かんぶん)12年)に伊勢(いせ)(今(いま)の三重(みえ)県)出身(しゅっしん)の材木(ざいもく)商人、河村瑞賢(かわむらずいけん)が幕府の命令(めいれい)によって開拓(かいたく)しました。大阪(おおさか)が商業都市(しょうぎょうとし)としとして栄(ささ)えてきたころから、この航路はよく使(つか)われるようになり、日本海側(にほんかいがわ)から米(こめ)などを、事故(じこ)などもなく安全(あんぜん)に安(やす)く江戸(えど)まで運(はこ)ぶことができるようになりました。
西廻り航路(こうろ)は、江戸時代中ごろからさらに大阪(おおさか)から北海道(ほっかいどう)までのびました。
これが北前船(きたまえぶね)による北前航路で、明治(めいじ)時代のはじめころまで活発(かっぱつ)に使われていました。北前船は、北国(きたぐに)や北海道(ほっかいどう)で必要(ひつよう)なもの(=酒(さけ)、紙(かみ)、たばこ、米(こめ)など)を瀬戸内海(せとないかい)で仕入(しい)れ、運(はこ)んでいって売(う)り、帰(かえ)りには、北海道で数の子(かずのこ)、こんぶ、にしんなどをたくさん買(か)って瀬戸内海(せとないかい)の各地(かくち)で売(う)る、という方法(ほうほう)で商売(しょうばい)をし、大阪(おおさか)まで帰(かえ)ってきました。
高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は、1500石積(ごくづ)みの北前船辰悦丸(しんえつまる)をつくり、活躍(かつやく)した人として有名(ゆうめい)です。
1868年(ねん)1月(がつ)1日(にち)(慶応(けいおう)3年12月7日)に兵庫港(ひょうごこう)が開(ひら)かれていらい、港(みなと)は再(ふたた)び発展(はってん)し近代化(きんだいか)していきます。町(まち)には県庁(けんちょう)や裁判所(さいばんしょ)などが置(お)かれ、異人館(いじんかん)のたちならぶ居留地(きょりゅうち)には多(おお)くの外国人(がいこくじん)が住(す)み、西洋文明(せいようぶんめい)が入(はい)ってきました。
1907年(明治(めいじ)40年)からは港(みなと)の大(おお)きな改修工事(かいしゅうこうじ)が始(はじ)まり、国際(こくさい)港への道(みち)を歩(あゆみ)はじめました。また一方(いっぽう)では、運河(うんが)や水道(すいどう)も建設(けんせつ)され、近代都市(きんだいとし)としての整備(せいび)も進(すす)められました。
2万人(まんにん)だった人口(じんこう)は、1889年(明治22年)に市制(しせい)がしかれたときには、約(やく)13万(まん)5千(せん)人に増(ふ)えていました。面積(めんせき)は21平方(へいほう)キロメートルです。
開港以来(いらい)、神戸(こうべ)は貿易(ぼうえき)港としてめざましく発展し、マッチや造船(ぞうせん)などの工業(こうぎょう)もうまれ、日清(にっしん)・日露(にちろ)戦争(せんそう)のあとには、造船・鉄鋼(てっこう)などの重工業(じゅうこうぎょう)が急成長(きゅうせいちょう)しました。
大正時代前半(たいしょうじだいぜんはん)に入ると、第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)の影響(えいきょう)による造船・海運(かいうん)ブームで好景気(こうけいき)をむかえました。しかし、その後(ご)は物価(ぶっか)があがり、景気(けいき)が悪(わる)くなり米騒動(こめそうどう)などもおきています。
また、時代の全体(ぜんたい)の流(なが)れも、昭和(しょうわ)の初期(しょき)の世界恐慌(せかいきょうこう)・満州事変(まんしゅうじへん)・日中(にっちゅう)戦争へと続(つづ)いていきます。