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最終更新日:2020年7月22日
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神戸が開港(かいこう)して以来(いらい)、たくさんの外国人(がいこくじん)が神戸を訪(おとず)れるようになります。
外国人がくらした外国人居留地(きょりゅうち)には、領事館(りょうじかん)、教会(きょうかい)、住宅(じゅうたく)、銀行(ぎんこう)、ホテルなどの建物(たてもの)が200以上(いじょう)もありました。
ここにすんでいる外国人、船乗(ふなのり)や旅行者(りょこうしゃ)のために、神戸の洋菓子(ようがし)はつくられるようになりました。
中(なか)でも、「オリエンタルホテル」で、ディナーのときにだされた洋菓子が有名(ゆうめい)です。
1897年(ねん)(明治(めいじ)30年)には、元町(もとまち)に本格的(ほんかくてき)な洋菓子店(ようがしてん)もできています。
また、第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)で日本人(にほんじん)の捕虜(ほりょ)となり、そのまま日本にとどまったドイツ人H・フロインドリーブや、ロシア革命(かくめい)をさけて日本にやってきたM・ゴンチャロフやF・モロゾフらによって、それぞれの国(くに)の、本場(ほんば)の洋菓子づくりが神戸にもちこまれました。
神戸の洋菓子は、自分(じぶん)の国の味(あじ)や技(わざ)をひろめようとした外国人や、洋菓子づくりにひきつけられた日本人によって、さらに工夫(くふう)され、ひきつがれて、いまのように発展(はってん)してきました。
コーヒーの輸入(ゆにゅう)がいつごろからはじまったかは、はっきりわかっていません。
明治時代(めいじじだい)、コーヒーを飲(の)む習慣(しゅうかん)のある外国人が、つぎつぎに日本(にほん)へやってきたことで、コーヒーも伝(つた)わってきたのではないかといわれています。
神戸にも、開港(かいこう)以来(いらい)、外国人居留地(きょりゅうち)にくらす外国人がたくさんふえてきて、このころにコーヒーを売(う)ったり、客(きゃく)に飲(の)ませたりする店(みせ)がでてきました。
明治時代のはじめごろには、洋食食料品(ようしょくしょくりょうひん)や茶(ちゃ)をあつかっている店で、コーヒーもいっしょに売られていました。
1891年(ねん)(明治24年)ごろには、神戸にコーヒー豆(まめ)を専門(せんもん)にあつかう店ができたという記録(きろく)が残(のこ)っています。
神戸でのコーヒー豆をあつかう業者(ぎょうしゃ)の数(かず)は、全国的(ぜんこくてき)にみても、そんなに多(おお)い方(ほう)ではありませんが、洋風(ようふう)の文化(ぶんか)と結(むす)びついた神戸らしい地場産業(じばさんぎょう)のひとつといえます。
兵庫県(ひょうごけん)の酒造業(しゅぞうぎょう)(酒造(さけづく)り)は1600年(ねん)に伊丹地方(いたみちほう)で確立(かくりつ)したとされています。
江戸時代(えどじだい)の中(なか)ごろには酒造りをしているところが約(やく)100件(けん)もありましたが、1833年からはじまった天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)がきっかけで、おとろえてしまいます。
やがて、酒造りの中心(ちゅうしん)は、伊丹から、六甲山(ろっこうさん)の南地方(みなみちほう)にうつります。
「灘五郷(なだごごう)」が主(おも)な産地(さんち)になり、そこでつくられたお酒(さけ)は、「灘(なだ)の生一本(きいっぽん)」として全国(ぜんこく)にしられるようになりました。
灘五郷で酒造りが発達(はったつ)したのには、いろいろ理由(りゆう)があります。
酒造りにてきしている「山田錦(やまだにしき)」という米(こめ)が播州平野(ばんしゅうへいや)(兵庫県の南西部(なんせいぶ)の平野)でとれること、交通(こうつう)が便利(べんり)で大消費地(だいしょうひち)に近(ちか)いこと、ミネラルをたくさん含(ふく)んだ「宮水(みやみず)」とよばれているいい水に恵(めぐ)まれていること、酒造りの技術(ぎじゅつ)が優(すぐ)れている丹波杜氏(たんばとうじ)とよばれる職人(しょくにん)がいたことなどです。
また、京都(きょうと)や大阪(おおさか)だけでなく、江戸との船(ふね)の便(びん)があったことも、酒造りが発達した重要(じゅうよう)な理由です。
阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)では、神戸の酒造業も、多(おお)くの被害(ひがい)を受(う)けました。
しかし、資料館(しりょうかん)を再建(さいけん)したり、酒蔵(さかぐら)の道(みち)を整備(せいび)したりして、まちづくりをしながら、酒造産業(しゅぞうさんぎょう)の復興(ふっこう)にとりくみました。
いまでは、灘五郷は、生産量(せいさんりょう)で全国一位(いちい)の「日本一の酒(さけ)どころ」としてしられています。
「いかなご」は、スズキ目(もく)イカナゴ科(か)の魚(さかな)です。関東方面(かんとうほうめん)では「こうなご」、九州北部(きゅうしゅうほくぶ)や岡山(おかやま)では「かなぎ」ともよばれています。
日本全国(にほんぜんこく)の近海(きんかい)にいて、垂水(たるみ)の沖(おき)や淡路島(あわじしま)のあたりでもとれます。
いかなごは、年末(ねんまつ)から新年(しんねん)にかけて卵(たまご)をうみます。
ふ化かしたばかりの小(ちい)さないかなごが3cmぐらいになる、2月下旬(げじゅん)から3月ごろまでが、いかなご漁(りょう)の季節(きせつ)です。
小さくて鮮度(せんど)がおちやすいため、とられるとすぐ、かまあげや天日干(てんぴぼし)にされます。
5センチ以下(いか)のいかなごは、新子(しんこ)と呼ばれます。
生(なま)の新子をしょうゆ、さとう(ザラメ)、ショウガで炊(た)いたものが「くぎ煮」です。
くぎ煮という名前(なまえ)は、新子をにつめると、固(かた)くなって、その様子(ようす)が釘(くぎ)ににているところからつけられたようです。
いかなごのくぎ煮は、古(ふる)くから漁師(りょうし)の家(いえ)で保存食(ほぞんしょく)としてつくられていました。
垂水区(たるみく)ではじめて商品(しょうひん)として売(う)られるようになったのは、1955年(ねん)(昭和(しょうわ)30年)ごろとおもわれます。
そのご、1962年(昭和37年)ごろからまちの魚屋(さかなや)でも、つくって売られるようになりました。
以前(いぜん)はハマチの餌(えさ)としてしか利用(りよう)されていなかったいかなごですが、1975年(昭和50年)ごろからは、漁師の奥(おく)さんなどが中心(ちゅうしん)になってくぎ煮の炊き方(かた)の講習会(こうしゅうかい)が開(ひら)かれるようになり、食材(しょくざい)として見直(みなお)されるようになりました。
やがて、いかなごのくぎ煮は各家庭(かくかてい)で競(きそ)ってつくられるようになります。
いまではそれぞれの家(いえ)でうけつがれていく大切(たいせつ)な味(あじ)のひとつになっているとともに、神戸に春(はる)をつげる、なくてはならない郷土料理(きょうどりょうり)となりました。
須磨のりは、こい緑色(みどりいろ)をしているのと、キメの細(こま)かさで、高級(こうきゅう)のりとして知(し)られています。
兵庫県では1926年(大正(たいしょう)15年)頃(ごろ)から、網干(あぼし)や赤穂(あこう)のあたりで、のりの養殖(ようしょく)が本格的(ほんかくてき)にはじまりました。
須磨のりの養殖がはじまったのは、1961年(昭和(しょうわ)36年)になってからです。
明石海峡(あかしかいきょう)をはさむ須磨浦(すまうら)のあたりで、魚のとれる量(りょう)が少(すく)なくなる12月から4月の間(あいだ)、漁に代(か)わる仕事(しごと)としてはじめられました。
最初(さいしょ)は、竹(たけ)のぼうを海(うみ)にさしていましたが、強(つよ)い風(かぜ)と海の流(なが)れで失敗(しっぱい)してしまいました。
色々ためしてみた結果(けっか)、現在(げんざい)では、ロープを使(つか)ってのりあみを海上(かいじょう)に流し、イカリ(=おもり)を固定(こてい)して生産(せいさん)しています。
のりの収穫(しゅうかく)は、毎年(まいとし)12月頃からはじまります。
マリンピア神戸にある神戸市立水産体験学習館(こうべしりつすいさんたいけんがくしゅうかん)「さかなの学校がっこう」では、1月から3月にのり作りを体験(たいけん)することができます。