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大輪田の泊と平清盛の時代

最終更新日:2024年11月8日

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萱の御所跡碑(薬仙寺)


延宝8(1680)年に記された『福原びんかがみ』によると『萱の御所』は『牢の御所』とも記されており、平清盛が後白河法皇を閉じこめていた場所だと伝えられている。現在は薬仙寺境内にその碑が立っている。

厳島神社


永沢町には平清盛ゆかりの『兵庫七弁天』の一つ、外弁天(厳島神社)がある。外弁天の”外”は兵庫津の域外にあったことによる。この付近は湊川の旧川筋にあたり、地下水も湧出して渕のようになっていたといわれ、昔『渦輪(うずわ)』と呼ばれていた。平清盛はそこに治水のためこの神社を建立したとされる。

湊川上温泉(湊山温泉)


治承3(1179)年の『山槐記』には、平清盛の福原ノ荘の『雪の御所』近くに『湯屋』があったと記されており、この温泉のことだとする説がある。天王谷のこの『湊川上温泉』は、文禄5(1596)年の大地震で大被害を受けたが、豊臣秀吉が正直屋寿閑に湯坪取立の朱印状を与えて復興させた。

平清盛廟(能福寺)


北逆瀬川町にある能福寺は平清盛ゆかりの寺である。養和元(1181)年に清盛が京都で没したおり、初代住職・円実法眼が清盛の遺言にのっとって遺骨を首にかけ、経ヶ島に持ち帰って法華堂に納めたと伝えられている。しかし遺骨の行方には諸説があり、所在地は確定されてはいない。

清盛塚十三重塔・琵琶塚・平清盛像


切戸町にはかつて、清盛が魚供養のために設けたという『魚の御堂(称名寺)』があった。町の南端の『清盛塚』と呼ばれる十三重石塔は、清盛の遺骨が納められているという説があるが、大正12(1923)年の調査で墳墓ではないということが明らかになった。弘安9(1286)年の銘を持つ整った形の塔で、県の文化財に指定されている。かたわらの『琵琶塚』は、平経正の琵琶を埋めたと伝えられる古墳があったことを示す。ともに市電の道路拡張工事で現在地に移され、昭和43(1968)年には平清盛像も立てられた。

熊野神社


国生み神話の主人公、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神を祀る熊野神社は、平清盛が福原遷都にあたって王城鎮護のため紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。なお、大正7(1918)年の調査ではこの付近の地下から、土器に納められた貝の腕輪などの遺物が大量出土し、先史時代から人が住んでいた形跡がうかがえる。

松王丸入海の碑・墓(築島寺)


島上町は承安年間(1171~75年)に平清盛が海を埋め立てて築かせた『経ケ島』の上にできた町という意味。築島の目的は『大輪田の泊』を東南の風から守るための工夫だった。難工事だったので17歳の松王丸が人柱となり、経文を記した石を沈めて基礎としたので経ヶ島と呼ばれたという。築島寺(来迎寺)には「松王小児入海」の碑と供養塔が残されている。

雪見御所旧跡(旧湊山小学校)

雪御所町石碑
石井川と天王谷川の合流点に位置する雪御所町は、平清盛の『雪見御所』の跡といわれる。わずか半年とはいえ、京の都を廃して安徳天皇などを引きつれて、清盛は福原に都を遷した。明治41(1908)年に湊山小学校校庭から礎石や土器などが発掘され、『雪見御所旧跡』の碑が立てられた。

平通盛・小宰相の局の五輪塔(願成寺)


願成寺の墓地にある『住蓮の石塔』は、奈良東大寺の実編の子で法然の弟子だった住蓮を弔うもの。源平合戦で討ち死した越前三位・平通盛と婦人・小宰相の局、乳母・呉葉を供養する五輪の石塔と並んで立っている。もとは烏原村にあったが、烏原貯水池建設のため現在地に移された。

七宮神社


『西摂大観』によると、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる小山があったが、平清盛が経ヶ島を築くため崩したという。塩槌山には大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと、七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。

平経俊五輪塔(鎮守稲荷神社)


平清盛の兄・平経俊を供養する五輪塔がある西出町の『鎮守稲荷神社』は、「ちぢみ稲荷」とも呼ばれる。この塔に祈ると子供のカンの虫が治まるといわれ、祈願者から寄贈された真っ赤なよだれかけが結ばれている。

金光寺


「兵庫の薬師さん」の通称で知られる『金光寺』の名は、まばゆい光を放つ金の薬師如来にちなむもの。夢枕に立った童子のお告げにしたがって、平清盛が大輪田の海に網をおろさせたところ、海中より黄金の薬師如来が現れた。それを本尊として創建されたと伝えられている。

宝地院


荒田町にある薬王山宝地院は、平清盛のすすめで福原に都を遷した安徳天皇の菩提を弔うため、弘安2(1279)年に建立されたと伝えられている。

恵林寺


十一面観世音菩薩を本尊とする恵林寺は、錦江省文禅師(きんこうしょうぶんぜんじ)が開基で、福原西国三十三ヶ所の第二十八番札所である。境内には、平清盛が経ヶ島を造ったときに困難や水難克服を祈願して建てられたという弁財天社があり、兵庫津七弁天の一つ『波除(なみよけ)の弁天』と呼ばれる。

時雨の松の碑(福海寺)


平清盛が好んだ『時雨の松』は、青葉から玉露の滴を垂らし、霊験あらたかであったといわれ、平清盛の隆盛を導いたという。いまは松はなく、碑だけが福海寺に残されている。

夢野八幡神社


平清盛の福原新都造営にさきがけ、都の守護のため治承元(1177)年に創られたという。清盛は自分の所有する荘園・福原荘に新しい都を計画し、福原荘全域が展望できるこの地で“のろし”をあげて、新都の位置を測定したと伝えられている。

安徳天皇行在所跡(荒田八幡神社)


荒田八幡神社が位置するのは、かつて平清盛の弟・池の大納言頼盛の山荘(別荘)があった場所。治承4(1180)年6月の福原遷都の際は、その山荘が安徳天皇の行在所(天皇の仮住まい)として使われたという。

平頼盛山荘跡(荒田八幡神社)


高倉上皇(安徳天皇の父)の『厳島御幸記』によると、「申の刻に福原に着かせ給う云々、あした(あらたの誤りと思われる)という頼盛の家にて、笠懸・流鏑馬(馬で駆けながら矢で笠や的を射ること)など仕つらせ御覧ぜられる」という記述がある。行在所跡とともに、平頼盛の山荘を伝える貴重な資料である。

福原遷都八百年記念の碑(荒田八幡神社)


治承4(1180)年6月3日、三種の神器と文武百官を従えて安徳天皇は福原に着いた。それから800年後の昭和55(1980)年6月3日、安徳天皇の行在所跡である荒田八幡神社の境内に、神戸史談会によって『福原遷都八百年記念の碑』が立てられた。

東福寺


昭和51(1976)年に「神戸市民の木」に指定された槙柏の木が境内にあり、福原西国第三十三ヶ所第十七番札所として知られる東福寺は、旧奥平野村で最も古い寺。もとの名を上迦寺と称し、仁安年間(1166~1169年)には平清盛の寄進によって七堂伽藍を構えていたが、元暦元(1184)年の源平合戦で焼失してしまったと伝える。

清盛橋


兵庫運河に架かる橋のうち、西端の高松橋から数えて第5番目の橋だったので『第5橋』と呼ばれていた。昭和62(1987)年12月に橋の拡張・架け替え工事が完成し、これを契機にこの橋の名前を一新。市民からの要望が多かった『清盛橋』に改名された。

神明神社


伊勢神宮の天照大神を分霊した神明神社は、元禄5(1692)年の寺社改帳によると「神明の宮二社即ち一、東の方社外宮口二、西の方社内宮」と記され、伊勢神宮と同じ形式の二社があったようである。

平業盛塚(善光寺)


平業盛塚は会下山町2丁目の善光寺境内にある。鵯越道から押し寄せた義経軍にかき乱され、平氏の軍は浮き足立った。平清盛の弟、教盛の末子で17歳の若武者だった業盛は、この合戦において源氏方の泥屋四郎・五郎の兄弟を相手に組み討ちで戦ったが、討ちとられてこの地に葬られたと伝えられている。

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