最終更新日:2024年9月25日
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須磨ニュータウンは、神戸の都心「三宮」の西方約10kmの須磨区と垂水区の境界に位置し、「高倉台」「横尾」「名谷」「落合」「白川台」「北須磨」の6団地からなる計画人口113,000人、面積900haの大規模なニュータウンです。
以下では、須磨ニュータウン開発の歴史を紹介します。
海と山に挟まれた神戸市にとって、土地開発はその発展のために不可欠でした。昭和20年代の後半から30年代の初めにかけて、工業化が進み、諸外国との貿易量が急速に増大していき、神戸市では臨海工業用地の確保、港湾施設の整備、急増する人口のための住宅政策の3つが緊急の課題となっていました。そこで、六甲山系の山から土砂を採取し、その土で臨海部を埋め立てるとともに、採取した跡地は住宅団地として造成することになりました。いわゆる神戸方式の開発手法「山、海へ行く」のまちづくりであり、この開発手法を本格的に取り入れたのは、ポートアイランド計画の具体化が契機となっています。
埋立用土砂は六甲山系の山から採取されることになり、1960年(昭和35年)には鶴甲山、1962年(昭和37年)には渦が森で工事が開始されていましたが、鶴甲と渦が森の土砂採取量だけでは、東部の臨海工業地帯を全て埋め立てる事は不可能であったことと、並行して西部の臨海工業地帯の造成も進めていたことから、高尾山と高倉山からも採取することになりました。
高倉山から東部工区への陸上輸送は、安全面からもコスト面からも不可能であるため、海上輸送に着目し、ベルトコンベヤとプッシャーパージ方式を、全国で始めての試みとして採用することになりました。このベルトコンベヤは2005年(平成17年)9月に稼働が停止するまで、西神ニュータウンの造成や六甲アイランドの埋め立てにも利用されました。
上記の写真につきましては、以下の場合を除き、無償でご利用いただけます。この場合、画像等利用の申請は不要です。ただし、使用に際しては、「写真提供神戸市」をクレジットしてください。
<ご利用いただけないケース>
提供する写真そのものが商品価値をもつ場合(絵葉書や写真集など)
「デザイン都市神戸」のイメージを損ねるような内容のものに使用する場合
昭和31年 | 1956 |
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昭和32年 | 1957 |
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昭和33年 | 1958 |
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昭和39年 | 1964 |
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昭和45年 | 1970 |
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昭和47年 | 1972 |
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昭和49年 | 1974 |
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昭和51年 | 1976 |
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昭和52年 | 1977 |
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昭和53年 | 1978 |
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昭和54年 | 1979 |
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昭和55年 | 1980 |
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昭和56年 | 1981 |
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昭和57年 | 1982 |
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昭和58年 | 1983 |
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昭和59年 | 1984 |
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昭和60年 | 1985 |
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昭和62年 | 1987 |
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平成4年 | 1992 |
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平成7年 | 1995 |
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平成13年 | 2000 |
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平成17年 | 2005 |
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神戸市『須磨ニュータウン誌』1989年11月発行
神戸市『新修神戸市史行政編3都市の整備』2005年3月発行