最終更新日:2024年8月29日
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「垂水」というのは「垂れ水」-「滝」ということで、東垂水から塩屋へ続く道路の北側に、水の滴りが絶えることがなかったところが、昭和になっても4か所(駒捨の滝、琵琶の滝、恩地(おんぢ)の滝、白滝)あったとされています。今では跡形もありませんが、この滝が地名の由来になったものと推測されます。
万葉集にも「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも」の歌があり、延喜式(927年)の中にも、垂水郷の名が見えます。
「塩屋」という地名は、古代からここで塩がつくられていたことに由来しています。鉢伏山頂上部の南面に、六世紀の古墳がありますが、この時代に製塩していた人達のものだろうといわれています。
JR塩屋駅の東側で、国道2号が山陽本線を跨いでいます。この陸橋を「菅公橋(かんこうばし)」と呼んでいます。平安時代初期、学者であった菅原道真は右大臣になりましたが、左大臣の藤原時平とうまくいかず、九州の大宰府(朝鮮や中国との外交機関)に左遷され、大阪から船でくだることになりました。しかし、神戸の和田岬で暴風に遭い、陸路にかえました。
この時代は、鉢伏山が海岸に突き出ており、海岸沿いの道はありませんでした。西宮神社の吉井宮司が、万葉集の中から「荒磯越す 波をかしこみ 淡路島 見ずや過ぎなむここだ近きを」の歌を見つけ、古山陽道は、須磨から多井畑に回っていたことを明らかにしました。
菅原道真は、この古山陽道を通って塩屋に出て、明石へ行きました。この時、明石の馬屋の駅長が塩屋まで迎えに来たという伝説から、1933年に造られたこの橋に「菅公橋(かんこうばし)」と名づけたのです。
旗振山の茶店の所は、東西によく開けています。江戸中期から、1897年の電信が開通するまで、ここで大きな旗(畳一枚大)を振って、大阪の堂島の米相場(値段)を、明石や加古川、岡山方面に伝えていたので、「旗振山」と呼ばれています。
昔、猟師が鹿やイノシシを獲るために「鉄カセ」を仕掛けたという言い伝えから「鉄拐山(てっかいさん)」という名になったといわれています。
神功皇后が朝鮮遠征の帰途、この山頂にカブトのハチを埋めたという伝説をもっていますが、お鉢を伏せた形から名づけられたのでしょう。
かつて、東垂水から塩屋にかけて、水の滴りが絶えることがなかった滝があったことから、旅びとの多くは、ここでノドの渇きをいやすことを楽しみにし、明治時代までは船の飲料水に汲まれていました。
この滝の所に茶屋があって、古山陽道をたどる人達が、淡路島を見ながら一休みしたのでしょう。
垂水のシンボルとして「垂水の灯台」は明治時代から有名になっています。この灯台付近は「平磯」といって暗礁になっていて、昔から明石海峡の難所で、たくさんの船が難破しました。そのため江戸時代から何度も木製の灯標が立てられましたが、潮流が激しいので、すぐに流されてしまいました。
そこで、1893年に、英国人技師の指導で鉄筋コンクリート造りの灯台が建てられました。そして現在に至るまで、この灯台がそのまま使われています。山口県小野田市にある旧小野田セメント工場内に、日本で最初(1883年)に造られたセメント燃結炉が、山口県指定史跡として保存されています。そこには、この燃結炉で作られた第一号のセメントで垂水の灯標が造られたと書かれています。
1868年の神戸開港で、つぎつぎと外人がきましたが、その中で英国人は、ほとんどが塩屋の海辺に家を建てて住みました。その一人のカメロン商会のジェームスさんの息子が、1932年頃から、この塩屋の山を開発して、50軒の外人用貸住宅を建てたので「ジェームス山」と呼ばれています。
終戦後には、このジェームスさんの家は海軍経理学校の校長公舎になりましたが、戦後ジェームスさんがカナダから帰り生活していました。しかし1954年に亡くなったので、サンヨー電機の故井植社長が、土地と貸住宅をともに買いとり、ジェームス山団地(美山台、青山台)として造成されたのです。井植さんは1969年に亡くなり、こよなく愛していたこの高台に、「井植記念館」が建てられました。絶景の場所で、区民にも利用されています。
「団地の町-垂水」といわれていますが、最初につくられたものが「高丸団地」です。兵庫県が1951年に着工し、1958年から入居がはじまりました。現在では3万坪(10万平方メートル)、1500世帯の規模になっています。
ついで、この北に連なる「垂水高原」といわれていた丘陵も、兵庫県、神戸市、住宅公団(現独立行政法人都市再生機構)合同で造成され、1966年に「上高丸団地」となりました。
この丘陵には、1943年に建てられた旧制県立四中だけがありました。1947年の学制改革で旧制県商と県四中が合併し、星陵高校になり、新制の垂水中学がここに置かれたのです。
太平洋戦争中に、軍用放射道路として、神戸から、加古川や三木への工事に着工し、終戦で中止されていましたが、1964年に「神明道路」として完成し、この垂水区内は有料になりました。1968年には阪神高速と結び「第二神明道路」(自動車専用国道2号)になりました。
昭和初期から、この高丸の丘陵の東斜面に、神戸や大阪のお金持ちが別荘を建てはじめました。そのため道路も改修されたのですが、この別荘族の集会所として「高丸クラブ」が建ったのです。「桜小路」の桜並木もその時に植えられたものです。今では、バスの停留所名(クラブ前)に名を残すのみです。
垂水区山田(西舞子)より、明石海峡に注ぐ川。舞子川とも称し、もと明石郡山田村でした。
背後の丘陵地の谷間を中心として、山田といいました。
垂水区垂水より、明石海峡に注ぐ川。もともと、垂水川でしたが、流域の福田をとって改名しました。福田とは深田の佳名。
垂水区塩屋より、大阪湾に注ぐ川。別名、谷川と称し、水源は摂津・播磨の国界です。古代より塩屋浜で、海塩を生産していました。
片側一車線で道は細く、急カーブの連続。第ニ神明道路の建設に伴い、高度成長期の1960年代、日本道路公団が工事作業用に造りました。
段々畑だった斜面を切り開き、大小のため池を縫うように走っており、長さ900メートル、高低差約50メートル。
工事のためダンプカーがひっきりなしに通過したといいます。現在のように、市道「名谷高丸線」として、一般車両も通行できるようになったのは1970年からです。