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最終更新日:2024年8月19日
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男山昭二さん
1943年9月、16歳で陸軍飛行学校へ入学し、卒業後はジャワ島へ配属、終戦間際には仏印(現在のベトナム・ラオス・カンボジア)から中国を経由し、沖縄へ特攻を予定していました。仏印から中国・台北、南京、北京を超えて奉天へたどり着いたところで、8月15日の終戦を迎え、命からがら三重県明野町へ帰還しました。
日本へ帰還後は、両親の疎開先である愛知県東加茂郡足助町へ帰宅しましたが、一番遠くにいるはずの私が一番に帰ってきたと両親が驚いていたのをよく覚えています。その後は、魚崎にある姉の嫁ぎ先に住まわせてもらうこととなりました。私は、(飛行隊として戦地にいたため)神戸空襲は経験していませんが、当時の神戸は焼け野原になっており、それはもうひどいものでした。
終戦後は、妻と結婚し、さまざまな仕事をして過ごしましたが、本当に不衛生な時代で、よく生きて来れたと今でも思います。お風呂がなく、夏は洗濯桶に湯を沸かして行水をしたり、飼っていたウサギや鶏を殺して食べたりしたこともあります。また、当時の神戸は、高架下の闇市が大盛況で、そこには何でも売られていました。日雇いの焼け跡の掃除で拾った銅線を売ったり、戦地から持ち帰った飯盒を持っていると「買ったるで」と声をかけられたりすることもありました。
5年ほどすると、ぼちぼち家も建ち始め、徐々に復興の兆しが見えてきました。本当に悲惨な時代でしたが、戦争を経験したおかげで今の時代・生活があることを決して忘れてはいけないと思います。
2019年7月寄稿