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「聞こえない」ことで恐怖が増した空襲

最終更新日:2024年8月19日

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山村賢二さん

神戸空襲にあったのは中学生の時。私は垂水のろうあ学校に通っていました。1945年3月17日の空襲の時、警報が鳴って逃げている途中、兵庫区の三菱や川崎重工など造船場のあたりに爆弾が落ちているのが見えました。花火のように赤い光が見え、私には音が聞こえなかったのですが、みんなは大きな音が怖いと言っていたのを覚えています。
次の日、父の会社を確認するため、三宮から兵庫区の中央市場のあたりまで歩きました。爆弾が落ちたそごう(現:阪急)前では、真っ黒になって亡くなっている人をたくさん見ました。空襲の激しかった兵庫区では、熱さから逃れるように防火水槽に顔や体を突っ込んだり、運河に飛び込んで亡くなっている人がたくさんいました。
戦争がひどくなってきたので、私は学校の寄宿舎で生活することになりました。同じように耳の聞こえない生徒たちが寝泊まりしていて、夜に空襲警報が鳴っても誰も音では気付けません。先生が畳をたたく振動で目を覚まし、防空壕に逃げるという状況でした。1945年6月5日の空襲で、学校に焼夷弾が落ちました。私はなんとか田んぼに逃げられたものの、学校は2時間ぐらい燃え続け、全て失くなってしまいました。
聞こえる人は警報や爆撃機が近づいてくる音を聞いて逃げる準備ができますが、私は目の前で何かが起こるまで気付くことができません。聞こえないことはとても怖かったです。
皆さんには決して戦争を経験して欲しくないと強く願っています。私は山登りをしますが、道中、当時のことを色々と思い返したりします。山の頂上から見える今の神戸の景色はとても綺麗ですよね。この景色が守られ続けてほしいです。

広報紙KOBE2020年8月号掲載

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