最終更新日:2024年9月24日
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県下最初の私設鉄道である山陽鉄道株式会社は、明治21年4月に設立され、同年11月に兵庫-明石間が開通(区内では須磨駅が、同時に開業)、明治22年9月には神戸-姫路間が全通して、明治7年5月に大阪-神戸間で開通していた官設鉄道とつながった。明治34年には神戸-下関間の開通を見るにいたったが、明治39年3月の鉄道国有法の公布により、同年12月に買収され、国有鉄道に統合された。
わずか20年足らずの短い期間ながら、列車ボーイの搭乗、急行列車に食堂車の連結、1等寝台車の運行など、鉄道史上初となる新機軸を次々に生み出した会社であった。
山陽鉄道の開通をはじめとした交通インフラの発展に伴い、須磨は、華族や財界人から別荘地としても注目されるようになり、明治30年頃から別荘が建て始められ、大正3年の武庫離宮造営に集大成される須磨の「近代別荘文化」につながっていくこととなる。
このような近代の須磨に大きな影響を与えた山陽鉄道の面影として、JR須磨駅南側の沿線沿いに山陽鉄道のマークが刻まれた境界杭が、須磨の地にも残されている。
参考文献:『兵庫県100年史』兵庫県(昭和42年発行)
JR須磨駅南側から東に徒歩3分 須磨浦通4丁目9-16の地先(線路沿い)(PDF:303KB)
山陽鉄道時代の「須磨駅」(兼先勉氏提供)
山陽鉄道境界杭
須磨浦公園の三の谷の西、国道二号線沿いにある大きな五輪塔の石塔で、地上部の高さが約3.5メートル。
この石塔は平敦盛の供養塔だといわれてきたが、北条貞時が平家一門を供養するために、弘安9年(1286年)に建立し、「あつめ塚」といわれていたのが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もある。
この石塔の前が古来の山陽道、近世の西国街道で、多くの旅人が香花をささげてきた。
大正時代には、敦盛さんは子供の病気の神様で、お礼参りには青葉の笛になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引きをかけたものを奉納したと伝えている。
山陽須磨浦公園駅下車西200m
二の谷の坂をのぼった高台に「安徳帝内裏跡伝説地」の石碑がある。ここに、安徳天皇の内裏があったという伝説がある。安徳天皇は、平清盛の娘、建礼門院徳子を母として生まれた悲劇の幼帝。治承4年(1180年)2歳で即位。木曽義仲の京都進入により、平家一門とともに西へ都落ちし、寿永4年(1185年)3月24日、壇の浦で平家滅亡とともに祖母二位尼にいだかれて入水されたと伝えられている。
この伝説地は歴史的には矛盾するが、西下の途中、一の谷に一時内裏をおかれたとの言い伝えがあり、元禄年間には松尾芭蕉がここを訪ねている。安徳天皇の冥福を祈って、この地に祀られているのが安徳宮である。
なお、令和3年度、神戸歴史遺産に認定された。
山陽須磨浦公園駅下車北東600m 一の谷町2丁目
須磨にわび住まいした在原行平と愛しあったという松風・村雨は、多井畑の村長の娘だったといわれ、多井畑には、二人が水鏡として使ったといわれている泉があり、これを鏡の井とよんでいる。
その一帯は、字畑殿とよび、二人が育った館の跡だと伝えている。
市バス多井畑厄神下車西徒歩3分
もと兵庫区の和田岬にあったもので、明治17年にそれまでの木造灯台を鉄骨に改築したもの。
明治初期の鉄骨灯台としては、現存する最古のものであるため、昭和38年和田岬灯台が廃灯になったあと、永久保存するため、昭和39年現在地の海浜公園の西端に移設された。
JR須磨駅から東へ徒歩15分
夏のある暑い日、妙法寺村に立ち寄られた弘法大師は、村人に水を所望した。
しかし、この妙法寺村には湧き水の出るようなところがなく、飲み水に困っていた。
その話を聞いた弘法大師はたいへん心を痛めて、手にしたつえでトントンと大地をつくと、きれいな水が湧き出てきた。弘法の井戸の伝説は各地に点在しているが、この井戸は、現在も妙法寺谷野にあり、土地の人々から大切にされている。
市バス奥妙法寺下車西へ徒歩10分
寿永3年2月7日、源平合戦のとき、東門生田の森を守った副大将、平重衡(清盛の五男)は源氏の軍勢を防ぎきれず、敗勢とともに馬に乗り、海辺の船に逃れようとするが、すぐ後に源氏の軍勢が迫ったため、そのまま山陽道を西に遁走したが、ついに西須磨で源範頼の家来、庄三郎家長に馬が矢で射られ、ついに生け捕られてしまったと「平家物語」にある。
松の根に腰をおろして無念の涙を流す重衡をみて、村人が濁酒一杯さしあげたところ、非常によろこんで、「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁酒なれ」と一首を詠んだと伝えている。
山陽電鉄須磨寺駅前には「平重衡とらわれの遺跡」の碑が建っており、かつてここに腰掛の松といわれた大きな松があった。
山陽須磨寺駅下車すぐ
那須与市宗隆は、屋島で扇の的を射た若武者で、下野(栃木県)国那須野庄の住人である。郷里の那須の庄にも墓所はあるが、北向八幡宮へお礼のため参詣し、病のためこの地で死去したと伝えている。
この墓に参詣すると、年老いても「しもの世話にならない」との信仰があり、毎月7日の御命日には参詣者が多い。
この墓所から道路を渡った東側に土地の人々が彼を祀った那須神社と与市が信仰していたと伝える北向厄除八幡がある。
山陽板宿駅から市バス那須神社前下車すぐ
須磨の旧家である前田家の前に植えられていたカキツバタは街道を往来する人たちに親しまれ、「須磨の前田のカキツのなかに、アヤメ咲くとは知らなんだ、咲いてしおれてまた咲く花は、須磨の前田のカキツバタ」などと唄われた。
菅原道真が九州へ左遷の途中、風波をさけて須磨に上陸したとき、前田家から井戸の水をくんで差しあげたところ、大いに喜ばれて自画像を前田家に与えたという。
前田家では、その井戸に「菅の井」と名付け、この水で銘酒「菅の井」を作って毎年太宰府天満宮へ献上していたと伝えられている。
山陽須磨寺駅から南東徒歩5分
在原行平は、光孝天皇のいかりにふれて、仁和3年(887年)に須磨にわび住まいしたという。
ある日、汐汲みにきた多井畑村長の娘二人「もしほ」と「こふじ」に出会い、「松風」・「村雨」と名付けて愛した。三年後、都に帰る行平と二人の女性の悲しい別れの伝説は、謡曲にもとりいれられて有名になった。
行平が去った後、姉妹は、行平の住居のかたわらに庵をむすび、行平の無事を祈り、ついには多井畑で世を終えたと伝えられている。現在の堂は、その庵の跡だと伝えられている。
市バス村雨堂下車北すぐ 山陽須磨寺駅から東徒歩10分
多井畑八幡宮より西200mのところに農家の庭の一隅にある五輪塔二基で、左が姉の「もしほ」松風、右は妹「こふじ」村雨の墓と伝えられている。
市バス多井畑厄神下車西徒歩5分