最終更新日:2024年9月11日
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菅原道真が九州に流される途中、ここで休まれた時の宿泊の跡に武神八幡大神と菅公を鎮守神として祀ったと伝える。1965年(昭和40年)、鳴滝明神社をも合祀した。この北方には得能山古墳があった。
境内には、道真をしたって京都から飛んできたといわれる大きな松「飛び松」の切株が残っていて、この松にちなんで、当社から西に続く丘陵を「飛び松が岡」あるいは「松岡」とよんだ。
住所:〒654-0009 兵庫県神戸市須磨区板宿町3丁目15−25(山陽板宿駅から北西徒歩15分)
孝徳天皇の646年(大化2年)の創立といわれ、もとは三木街道の南の地に鎮座していた社殿が非常に壮大であったので、大堂(おおどう)と言ったのが、なまって今の車大道(くるまおおどう)になったという。
境内末社として夷神社、祇園神社、八幡神社、天満神社、稲荷神社がある。例祭は10月16日であるが、毎年1月14日の夜には「お面式」と呼ばれる豊作願いの行事があって「翁舞」が演じられる。これは江戸時代以前の形態を伝えており、全国的に珍しいことから国の重要無形文化財にも指定されている。
市営地下鉄妙法寺駅から市バス車大道下車徒歩5分
一条天皇の995年(長徳元年)この山村に疫病が大流行したので、須佐之男命を迎えて疫病退散を祈願したといわれるが、もとは、トシ(古語で米を意味する)の神を祀る社。1935年(昭和10年)に火災があり、三六歌仙扁額などを焼失した。
かつては、毎年陰暦2月卯の日に御弓式、正月16日には南隣の車と同様に「御面溝」と呼ばれる翁舞いがあったが、現在は行われていない。
市営地下鉄名谷駅から市バス白川台下車東徒歩10分
源平合戦のとき、那須与市宗隆が、この北向厄除八幡神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうした。お礼のため、その後再びこの地を訪れ参詣したが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説がある。また、一説では1484年(文明16年)の創建と伝えられる。
境内には1921年(大正10年)ごろに与市を祀る那須神社を勧請している。神事のうち1月7日の的射式(俗にお弓さんという)は、もとは烏帽子、直垂すがたの村民が弓、矢、扇をもって的を射る式を行っていた。
1月19日に厄除けのお祭りがあり、宮相撲があった。
山陽板宿駅から市バス那須神社前下車すぐ
臨済宗南禅寺派、本尊は釈迦牟尼仏で1336年(建武3年)の創建だと伝える。
湊川の戦いの時、足利尊氏の陣へ飛んでくる矢を拾う僧が現れ、味方をまったく傷つけなかったために尊氏軍の勝利に終わった。
それを日ごろ信仰してきた兵庫の魚御堂の地蔵の化身と考えた尊氏は、矢拾い地蔵として車の地に移し善福寺を創建した。
1945年(昭和20年)に慶雲庵を合併して慶雲寺としたが、1953年(昭和28年)の火災により「矢拾地蔵」は焼失した。
市営地下鉄妙法寺駅から市バス車大道下車徒歩5分
浄土真宗西本願寺末。千森川の東岸にあり、もとは源光寺とも書かれていた。
1514年(永正11年)、浄教上人の開基といわれ、本尊は阿弥陀如来。江戸時代の地誌では、ここは、光源氏の住居跡と伝えられ、境内には有名な松尾芭蕉の三段切の名句「見渡せば眺むれば見れば須磨の秋」の碑がある。
現光寺の近くに「藩架(ませがき)」とか「ヤグラ」という字名が残っていて、古代の須磨の関跡だとも説かれる。
明治のはじめごろ、現光寺の裏手から「川東左右関屋跡」の石柱が掘り出され、この説を支える資料だと考えられている。
須磨寺町1丁目 山陽須磨寺駅から徒歩5分
1506年(永正3年)紀州熊野権現を勧請して勝福寺の地主神として祀ったと伝える。
古代には、須磨全体は長田神社の氏子地であったが、中世に須磨区中部に台頭した武家勢力が、松岡城を築き、武神としてこの社を祀ったのであろう。
長田神社の氏子地をもっており、江戸時代には、大手、板宿、東須磨、野田、駒ケ林の総鎮守として栄え、聖霊権現とよばれた。
1929年(昭和4年)に祭神を五十猛命(いそたけるのみこと)とし、社名も今のものに改めた。一般に、大手の権現さんといわれている。
山陽板宿駅から南西徒歩5分
真言宗。1146年(久安2年)仁海上人の創建と伝えられ、本尊の薬師如来は、須磨にわび住まいした在原行平が、都に帰れるようにと祈ったとも伝えられ、「稲葉薬師」とよばれる。また、寿永の源平合戦の兵火の被害をまぬがれたので「火除けの薬師」とも言われている。
山陽月見山駅から南東徒歩10分
真言宗で本尊は聖観音菩薩。
988年(永延2年)太政大臣藤原伊尹(これただ)の三男、藤原英雄丸が勅命により、証楽上人と名を改め、高取山麓に庵を建て、鹿松峠(かのししまつとうげ)に出没していた鬼人を仏教の力で退散させた後に開いたといわれている。
七堂伽藍、三十六坊を有する大寺院であったが、しばしば山津波にあって堂塔、宝物を失い、現存するものはわずかに山門と庫裏のみ。
1938年(昭和13年)阪神大水害で倒壊した本堂は、2009年(平成21年)71年ぶりに再建された。
1月7日の追儺式は、証楽上人の鬼人退治にちなむと伝えられ、たくさんの人でにぎわっている。この寺とその背山一帯が『太平記』にみえる松岡城である。
大手町9丁目 市営地下鉄・山陽板宿駅から北西徒歩15分
須磨の関の守護神としてまつられたと伝えられ、境内に百人一首で知られる源兼昌の碑がある。なお、関守稲荷神社は、『源氏物語』で光源氏が須磨に流された時、巳の日祓をしたところをここになぞらえ巳の日稲荷という。
関守町1丁目 JR須磨駅から北東徒歩8分
神撫山禅昌寺といい、本尊は十一面観音。1356~60年(延文年間)月庵禅師の開山で、室町時代には幕府の保護も得て栄え、豊臣秀吉の桃山御殿から豊国亭を移して方丈としていたが、これは明治時代に火災で焼失した。
紅葉寺ともよばれ、スズメのお宿でよく知られている。スズメのお宿は立杭焼のひょうたんで、開山堂にぶらさがっている。
昭和のはじめまでは、紅葉の季節には、境内に赤もうせんを敷いた茶屋ができたりして風流人でにぎわい、瓢水の句碑にあるように「本尊は釈迦か阿弥陀か紅葉かな」という風情があった。
白壁の築地、緑の竹藪、左甚五郎作と伝えられる山門のあたりのたたずまいに昔をしのぶものが残っている。
山陽板宿駅から市バス禅昌寺下車すぐ
光仁天皇770年(神護景雲4年)、畿内の国境十カ所に疫神を祭って疫はらいを行わせたと『続日本紀』が記している。
摂播国境のこの地もその一つで、今でも社殿後方の高地をその遺跡だと伝えている。社殿は、高倉天皇の安元年間に、男山八幡宮を勧請して造営したのが初めだといわれている。
1月18、19日の厄除祭は盛大で、大正年間に出版された書物を見ると「東須磨より多井畑厄神まで三十三町の坂道は露店をもって充たされ、その雑踏いわん方なし。この日における賽銭、神符料など千五百円以上に及ぶ」と記されている。
JR須磨駅から市バス多井畑厄神下車すぐ
須磨の綱敷天神は、道真公の旧臣、武部家に伝来の「天満宮御所在地記」にも「日本二十五社の一、摂津国須磨綱敷天神」と明記されている。
菅原道真公九州左遷の際、風波をさけて須磨へ一時上陸されたとき漁師たちは網の大綱を巻き、円座を作り、その上に休息させた。
後に彼が天満天神として祭られるようになった時、そのことにちなんでここに彼を祭神とする天神社が979年(天元2年)に創建されたと伝えられている。
1月15日の初天神、2月25日の梅花祭、7月25日の例祭がある。
JR須磨駅から東徒歩15分
古くは天台宗で明光寺といい、1650年(慶安3年)の検地では阿弥陀堂とあり、1692年(元禄5年)には伽藍も建立され、後に黄檗宗に変わった。
一時は禅道場として栄えた。のち火災により衰えたが、大正時代に住職が境内に十数種の萩を植え、萩の寺とよばれるようになり、9月中下旬の満開期には、たくさんの参詣者でにぎわっている。
山陽板宿駅から市バス那須神社前下車すぐ
真言宗須磨寺派の大本山。西須磨の台地は古くから須磨の上野とよばれており、山号はこれにちなんで上野山。一般には須磨寺の名で知られているが、正式には福祥寺である。
淳和天皇のころ(823~33年)に和田岬の沖で漁師が聖観音像を引き揚げ、会下山の北峯寺に安置していたのを、886年(仁和2年)に聞鏡上人が須磨の地に移したのが始まりとされている。
1596年(文禄5年)の地震で堂塔が倒壊したのを、1602年(慶長7年)豊臣秀頼が復旧し、片桐且元も建物を寄進した。もとは12坊あったが、今は3院だけが残って、それぞれ独立している。
1949年(昭和24年)頃寺の南に千本の桜が植えられ、須磨大池とともに新吉野といわれる桜の名所となり、花時には人出でにぎわったが、今はその景勝は見られず、境内の「植桜記」の碑文が当時を物語っている。
20日、21日の“お大師さん”には参道に屋台が出て、参拝者があふれている。
山陽須磨寺駅から北徒歩10分
高野山真言宗、毘沙門山妙法寺。738年聖武天皇の勅願所として行基菩薩によって開かれた。平清盛が都を京都から福原に移したとき、ここを新鞍馬と称して福原京の鎮守の地として保護したといわれている。
本尊の木造毘沙門天立像は国の重要文化財に指定されており、その他にも県の重要文化財に指定されている石造宝篋院塔や乳薬師など歴史を感じさせる寺宝がたくさんある。
市営地下鉄妙法寺駅から南東徒歩10分
平安朝の末期、琵琶の達人太政大臣藤原師長(ふじわらもろなが)は琵琶の名人であったが、唐に渡りなおも奥義をきわめたいと願い、都を出て須磨まできた。その夜、村上天皇と梨壺女御(なしつぼにょご)の霊が現れ、師長に琵琶ひきの腕前をあたえたので、入唐を思いとどまって琵琶の「獅子丸」を埋め都に帰ったという。
琵琶を埋めた琵琶塚は、境内にあったが、山陽の線路で二分され、小高い土地の一部が残っている。この村上天皇にまつわる伝説から村上天皇を祀ったといわれている。
JR須磨駅から東徒歩5分
本社の祭神は、猿田彦命(さるだひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)であるが、その祀られた由緒は明らかでない。
8月23日の例祭には、白川の鷲尾一族が集まって朝から神社の清掃をし、兵庫七宮神社の神主を招いて祭祀、終わると鷲尾本家に集まって、一年間の無事を感謝し、親睦を深めた。
お宮の入口には神戸市が名木に指定した「石抱きカヤ」の木がある。
市営地下鉄名谷駅から市バス白川台下車東徒歩15分