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最終更新日:2023年2月10日
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神戸における外国人墓地は、兵庫開港に先立つ慶応3年(1867)5月16日の「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」により、外国人居留地の背後の山手(城ヶ口)に日本政府が設けることになっていました。しかし、1868年1月1日の兵庫開港直前の12月、神戸沖に停泊中の船上で4人が亡くなったため、急遽、墓地の必要が生じ、居留地の東側に隣接する小野浜新田(現在の中央区浜辺通6丁目)を幕府が提供し、小野浜外国人墓地が開設されました。
居留地時代は、墓地の管理は居留地行事局が行っていました。明治32年(1899)7月17日の条約改正で居留地が日本に返還されると、小野浜外国人墓地も神戸市が管理に当たることになり、同年8月に外国人埋葬地規則が制定されました。
居留地返還後、外国側と日本側の交渉の円満をはかるため、旧居留地の外国人の中から相談委員を選出しました。のちに神戸国際委員会、阪神国際委員会、関西国際委員会と改称されました。
(写真は再度公園の外国人墓地)
『神戸外国人居留地:ジャパンクロニクル紙ジュビリーナンバー』によると、外国側は、小野浜外国人墓地ができた当初より、山手へ墓地を移転するよう何度も要請していました。
墓地が神戸市の管理下に移った明治32年(1899)、小野浜外国人墓地はすでに飽和状態にあったため、神戸市は、約3000坪の新たな墓地を葺合村春日野(現在の中央区籠池通4丁目)に造成しました。これが春日野外国人墓地です。この時、各国領事団と神戸市との間で交わされ、とりまとめたものに「神戸外国人墓地ニ関スル覚書」があります。以後、小野浜での埋葬は許可されませんでしたが、祖先のかたわらに埋葬を希望する者にかぎり、使用料を徴収して埋葬を認めることになりました。
やがて神戸港が発展していくと、小野浜外国人墓地にも市街化の波が押し寄せ、また春日野外国人墓地が狭隘となり、居留外国人からその対策の要望が出てきました。これを受けて、昭和11年(1936)6月の市会に「外国人墓地新営ノ件」が上程、可決されました。これによって、昭和12年(1937)2月、再度公園の一角に面積2万2000坪、えい地1500をもつ公園墓地の造営が始まりました。
しかし、昭和13年(1938)の阪神大水害、太平洋戦争により造営は中断となります。戦後、工事が再開され、昭和27年(1952)8月に墓地整備が完了し、小野浜外国人墓地の墓碑620基を移転、昭和36年(1961)には春日野墓地の1406基が移転されました。移転に際しては、両外国人墓地を地区別に配置し、当時の姿を損なうことなく移設されました。
運営・管理は、昭和39年(1964)制定の「神戸市立外国人墓地条例」、「神戸市立外国人墓地条例施行規則」に基づき、関西国際委員会と調整を図りながら行なわれていました。現在、61カ国、約2800柱が埋葬されています。平成19年(2007)、外国人墓地は周辺の再度公園・再度山永久植生保存地とともに、国指定の名勝となりました。
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