ホーム > 文化・スポーツ > 文化施設 > 谷崎潤一郎旧邸 倚松庵(いしょうあん) > 倚松庵のテラス・庭
最終更新日:2024年9月30日
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お秋とお花とがびっくりしたように黙って泣き顔を視詰めているので、少しきまりが悪くなって応接間からテラスへ逃げて来て、まだしくしくと(しゃく)り上げながら、幸子が庭の芝生の方へ降りて行った時であった。シュトルツ夫人が境界の金網の上から首を出して、これも青ざめた顔をしながら、
「奥さん」
と呼んだ。
「奥さん、あなたの旦那さんどうしましたか。エツコさんの学校どうですか」
「わたしの旦那さん、今悦子を迎えに行きました。悦子の学校は多分大丈夫らしいのです。奥さんの所の旦那さんは?」
「わたしの旦那さん、ペータアとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
(中略)
「あなたの旦那さん、きっときっと無事でお帰りになりますわ。それにこの水は蘆屋や住吉辺だけで、神戸がやられている筈はありませんから、ペータアさんやルミーさんは大丈夫に極まっていますわ。私ほんとうにそう信じます。きっと安心していらっしゃい」と、繰り返して元気づけてから、
「では又後で」
と云って、応接間へ戻ると、間もなく先刻開放しにして置いた表門から、貞之助とお春が悦子を連れて這入(はい)って来た。(中巻4章)
洋間から出られるようになっているテラスは五畳敷もあろうか、庭の土の面から30センチほど高くなっていた。当時のままに復元したセメントの上に立っていると、潤一郎と松子の、庭でのよく知られた写真も思い出されて、感慨無量である。
谷崎は住吉川東岸の家に転居した後、1944年4月に熱海に疎開するのであるが、その前にかつての隣人に挨拶してまわった。谷崎のあとに住んだ児山氏もその一人だった。かつて住んでいた家の庭にまわってこんな感想を書く。「疎開日記」1944年4月14日付の中に、「嘗ては予の愛したる庭なりしかどこれを見てはもはや何の愛着もなし」と、畑や防空壕を作るために荒らされ、変わりはてた庭に対する慨嘆の一文がある。谷崎が倚松庵を去った後に再び訪れたのはこの時だけで、応待に出たのは児山悠輔氏の妹だったという。
移築当時庭には「細雪」に出てくる植物を植樹した。4半世紀以上たった今では、大木となった。谷崎在住中の南隣は家主後藤靱(ゆき)雄(お)氏が東側に、裏の西側には、ドイツ人のシュボルム一家が住んでいた。