倚松庵の間取図

最終更新日:2024年9月30日

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間取図

「倚松庵よ永遠なれ(神戸市刊行)」より引用

1階(上が北側)

倚松庵の間取図(1階)

2階(上が北側)

倚松庵の間取図(2階)

『細雪』からの引用

蘆屋のこのあたりは、もとは大部分山林や畑地だったのが、大正の末頃からぽつぽつ開けて行った土地なので、この家の庭なども、そんなに広くはないのだけれども、昔の面影を伝えている大木の松などが二三本取り入れてあり、西北側は隣家の植え込みを隔てて六甲一帯の山や丘陵が望まれるところから、雪子はたまに上本町の本家へ帰って四五日もいてから戻って来ると、生れ変ったように気分がせいせいするのであった。(上巻18章)

解説

谷崎潤一郎は大変な転居魔で、関東大震災で関西に移住以来、阪神間に21年間在住して13回も転居している。倚松庵はその12番目の家で、この前に住んだ打出の家から同棲を始めた松子とその連れ子・恵美子、そしてしばしばやってくる二人の妹達のために、もっと広い家を探して住吉川河畔に来た。

倚松庵はもともと家主である後藤さんが在住していたが、紹介された借家より、家主の家そのものが気に入ってしまった谷崎は、「こちらの家を貸してください」と交渉して家主を借家に移ってもらって住みこんだのである。

そのようにして谷崎潤一郎が1936年11月から1943年11月まで住んだこの倚松庵は、1929年8月6日、施主後藤ムメ、として母屋が上棟された。家主の後藤さんの夫はベルギー人であったせいか、1929年の建築にしては、どことなくヨーロッパに香りのするモダンなデザインになっている

谷崎が「倚松庵」の雅号を用いたのは1932年の初めごろで夙川での隣居あたりからである。1941年ごろには「松廼舎」という雅号を使用することが多くなっている。このことから考えると、「倚松庵」と呼ばれる家は合計6軒あることになる。松の木があるからという理由が説得力を持つのは、根津別荘、魚崎、打出、反高林の4軒のみ。ここはやはり、松子に倚る、というメンタルな意味の方が重要だろう。

移築に際して、6軒の中でも特に反高林の家を「倚松庵」とあえて名付けたのは期間の長さと谷崎の愛着の深さのためである。

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