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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
五色塚古墳からのぞむ明石海峡大橋
平成10年4月5日、世界最長の吊橋「明石海峡大橋」が完成する。海峡の潮流の中にそそり立つスパン1991メートルの長大橋は、現代橋梁技術の粋を集めたものと言えよう。
しかし、いかに最新の技術を駆使した工事であっても、熟練した人間の手がなくては、できない作業がある。
「とび職」と呼ばれる人々は、海面から200メートル以上の高所でクレーンを仮設し、巨大な鋼材を組み立てる。それを接合する「鍛冶屋」と呼ばれる人々もいる。彼らは、橋梁建設には欠かせない特殊な技術を持つ専門集団である。いずれも高所での危険な作業だが、今回の工事で求められた仕事の精度は100分の1ミリ単位だった。
また、海中に橋脚の基礎となるケーソンを沈める工事では、ダイバーたちの存在が不可欠だった。数年前、瀬戸内海のサメ騒動の頃、彼らは最後の海中作業を終えた。
世界に誇る長大橋の姿を眺める時、建設に携わった多くの人々の労苦に思いをはせたい。
韓皙曦(岩波書店)
長田区で靴製造業を営んでいた在日韓国人の自伝である。
済州島に生まれ、6歳で家族と共に日本へ渡って来た著者の生涯は、多くの在日朝鮮人同様、貧困と差別に無縁ではない。
2・26事件、不況、戦争突入、敗戦、朝鮮戦争勃発と、昭和史を丸ごと生きた苦難の人生が綴られているが、そこに暗さはなく、むしろ生きるために道を切り拓き続けてきた人の充実感が窺われる。激動の昭和史と共にあった在日朝鮮人たちの状況を知る上で最適の本である。
当館の「青丘文庫」は著者が収集した朝鮮史資料の貴重なコレクションである。長年の研究に博士号が授与されたが、この1月、惜しくも他界された。
中村翔子(あかね書房)
映画「男はつらいよ・寅次郎紅の花」に登場したパン屋さんはここがモデル。
石倉さんは、41歳で会社をやめ、障害を持つ人たちと一緒に働く場(共同作業所)としてパン屋を開業した。試行錯誤を重ね、順調になった時に地震。再開後、焼き上がったおいしいパンは、人々のお腹と心を幸せで満たした。
田辺眞人(神戸新聞総合出版センター)
著者の前作『神戸の伝説』と『神戸の伝説散歩』の2書をあわせて改稿したもの。
神戸は幕末の開港以後発達した新しい街なのに伝説などあるのだろうかと疑問に思われがちだ。だが、神戸は万葉の時代から日本史の舞台に数多く登場しているのである。史料にもとづきながらもわかりやすく書かれているので、気軽に神戸の伝説が楽しめる。
安田泰幸(駿台曜曜社)
絵になる街、という言い方がある。この絵はがきに見立てられたスケッチの数々を眺めていると、まさに神戸がぴったりの街だと思える。細密なペン画と、水彩による美しい絵からは、おしゃれ、モダン、エキゾチックなど、神戸のエッセンスがにじみでてくる。
大阪で生まれ育ち、大学は京都という著者が、気に入って移り住んだ神戸の街。暖かい眼差しいっぱいの文章もさりげなく、上品である。ページ毎に素敵な便りが届くような、幸せな気分になる1冊。
玉起彰三(神戸新聞総合出版センター)
神戸生まれ、神戸育ちの著者が、勤務先のPR誌に連載した「六甲山ぶらり百話」をまとめたもの。
六甲山に生息する様々な動植物や厳しい自然環境、また、六甲山の歴史や伝説、そして山に暮らす人々の姿が描かれている。
六甲山に咲くササユリが好きという著者の目をとおして見た、六甲山の魅力がつまっている。
玉川ゆか(ユック舎)
「安っさん」はポートアイランド第3仮設住宅の自治会長、70歳である。住人の7割が老人の仮設住宅を取り巻く問題はつきることがなく、安っさんは大忙し。ついに彼は被災者への公的支援を求める署名を5万人分も集め、国会へ陳情に。震災神戸に生きる人々の群像が、エッセイと詩に生き生きと描かれている。また、彼らと真剣にかかわっていく詩人の姿が伝わってくる。
武庫川女子大学文学部国文学科編(和泉書院)
阪神間は古代から現在にいたるまで、数多くの文学の舞台となってきた。本書ではこれらの地をたずねつつ、同大学の教員19名がそれぞれの立場から作品を論じる。
古典では万葉集に登場する「敏馬の崎」と「処女塚」、百人一首の「有馬山」、源氏物語の「須磨の巻」、平家物語の「一の谷」などを、近代文学では谷崎潤一郎、竹中郁、妹尾河童の『少年H』をとりあげる。
国文学者の筆はたんなる文学散歩にとどまらず、作品の本質にせまる。それが阪神間という特殊な風土を理解する手がかりとなり、阪神間に生きる人々のアイデンティティを浮かび上がらせる。
外岡秀俊(みすず書房)
ジャーナリストである著者が、阪神淡路大震災をめぐる問題点を日本の社会というものをとおして総括した。日本の地震学から政府、自治体、消防、建築、メディアのあり方、被災者の補償、ボランティア、心のケアなど広い角度から、日本社会の過去も視点に入れて震災を検証し、その問題点を探る。そして、それは未来の日本社会に対する具体的なビジョンの提示にもなっている。
笠原芳光・季村敏夫編(人文書院)
「震災から見えてきたもの」を、私的な立場から、テーマを絞らずに自由に書いたもの。
執筆者は震災を直接体験した人、援助にかけつけた人、主婦、建築家など様々で、文章も客観的なものや主観的な感想など多彩である。
心のかたすみに今も息づく「あの日」を思い、人間の復興とは何かを問いかける。
神戸市教育委員会編(住まいの図書館出版局)
震災当日の朝、神戸をゆるがした大地震は、北野に点在する、神戸市の伝統的建造物群である異人館をも例外なく襲った。明治から昭和初期にかけて建造された洋風住宅は多大な被害を受けた。
被災から1ヶ月後、神戸市教育委員会と共に、その意向を受けた地元及び各地の建築家グループが、被害の現状調査にあたり、それぞれ独自の手法で修復工事に尽力した。本書はその報告である。
各建物の概要もわかりやすくまとめられており、修復のための様々な工夫は具体的で、たいへん興味深い。
建築医たちの神戸北野-震災から学ぶ歴史的な建物の修復 建築修復学会編(中央公論美術出版)
兵庫区には新川運河と兵庫運河があります。どちらも明治時代に民間の会社によって作られたものです。
かつて兵庫の港には適当な船舶避難所がなく、また、秋には特に風浪が激しくて難所となる和田岬をまわって入港するために、難破する船が少なくありませんでした。
そこで地元の富豪神田兵右衛門は駒ケ林海岸から兵庫和田堀までの運河開削を計画しました。神田は県の協力を得て新川社を設立、明治7年に工事にかかりました。
工事は当初の計画を縮小し、出在家町から築島に至る新川運河部分のみとなりましたが、請負業者の島田組が倒産するなど、工事は難航しました。長引く工事のため、神田は資金繰りに奔走し、巨額の私財をもつぎこんで、明治9年、新川開削を成し遂げました。
残された兵庫運河の構想は池本文太郎、八尾善四郎ら若い地主たちに引き継がれました。彼らもまた賛同者を募り、私財をなげうって、明治26年には兵庫運河会社が設立されました。
翌27年に県の認可を得た運河計画は、東尻池の海岸から新川運河に達する本線と、分かれて山陽鉄道兵庫停車場付近に及ぶ支線とからなっていました。しかし、地主の反対が強く、着工するまでに2年もかかり、運河の完成をみたのは明治32年のことでした。
神田や八尾らの運河にかけた姿からは、営利や私心などは感じられません。自らの夢に突き進みつつも、その根元には大局を見て公益をめざすという哲学があったからなのでしょう。
これらの工事によって西方面から兵庫港への入港が安全になったのはいうまでもなく、兵庫の運河は船の停泊場として、また戦後は貯木場として機能をはたし続けることになりました。
現在の兵庫運河
さて、この運河には昔珍しい橋がかかっていて人気をよんでいたといいます。大正14年当時の第1橋(現在の高松橋)、第3橋(材木橋)、第4橋(住吉橋)、第5橋(開運橋、現在は清盛橋)浮橋(現存せず)、新川橋などです。
浮橋は水面に浮かんだ橋、その他は船の行き来によって動く回旋橋でした。高松橋は、その後昭和3年に架け替えられ、バスキュール橋と呼ばれる、わが国最大の一葉式跳開橋となりました。
昭和3年当時の高松橋
今では、ほとんどの橋が改築され、動く橋を見ることはできませんが、JR和田岬線の兵庫運河をまたぐ鉄道橋に回旋橋の名残を見ることができます。また、可動橋ではありませんが、清盛塚のそばにある大輪田橋は、大正13年に架けられたその姿をとどめており、往時の運河の様子を偲ばせてくれます。