ホーム > 生涯学習 > 神戸市立図書館 > 神戸市立図書館トップページ > 神戸の郷土資料 > KOBEの本棚-神戸ふるさと文庫だより- > バックナンバー(19号~60号)KOBEの本棚 > KOBEの本棚 第41号
最終更新日:2023年7月27日
ここから本文です。
-神戸ふるさと文庫だより-
神戸ウイングスタジアム
ロシア対チュニジア戦を2日後に控えた6月3日撮影
日本でのワールドカップ開催にあわせ、昨年、兵庫区御崎町に神戸ウイングスタジアムが完成しました。収容人数四万二千人の巨大なサッカー専用競技場です。
神戸におけるサッカーの歴史は古く、約百三十年も前の一八七一年(明治四)の英字新聞『Hiogo News』にすでに、「フットボールの試合が本日午後、居留地において開催される」との記事がみられます。
また、神戸と横浜の外国人クラブとの間では、一八八八年(明治二一)から、インターポートマッチが毎年開催されています。さらに、一九一八年(大正七)から始まった日本フートボール大会(全国中等学校蹴球大会)においては、一九四〇年(昭和一五)までの通算二十二回の大会のうち、神戸の学校が十五回も優勝したという輝かしい記録も残っています。
プロサッカーチームの誕生、世界最高峰を決定するワールドカップの開催と、神戸のサッカー史にまた新たな一ページが加えられました。
小原啓司著・刊
一言でまちづくりといっても、事業は一つではない。明治には、新しい道路の開設や架橋など、地主を主体とする市街地整備事業が行われ、大正・昭和には、耕地整理、市区改正、土地区画整理事業などが行われた。
著者は、行政文書を読み解き、戦前期の神戸で行われたまちづくり事業について総合的に検証し、特に明治期の事業について詳しい分析を加えている。
櫃本誠一(学生社)
鏡は古代日本では単に姿をうつす道具ではなく、呪術的霊力のあるものであった。
祭祀に使用され、権力の象徴であった。銅製が主で、磨いた鏡面の背には種々の文様が施され、美術的評価の高いものが多い。兵庫県内では、約三百面出土している。
本書は、兵庫県下出土の弥生から古墳時代における鏡を集大成したもの。
遺跡や古墳の内容、鏡の出土状況などとともに県下の出土鏡を考察する。
松本誠編 神戸新聞社企画(文理閣)
震災後、復興に向けてさまざまな問題点が指摘され、多くの課題が提起されてきた。その中で従来の社会システムの現実的な限界を知り、自らが担い手となる新しい市民社会の仕組みを模索し、構築しようとする動きが芽生えてきた。環境保全、経済問題、非営利組織の役割など、二十一世紀を迎え、人々が求める新しい社会像とはどのようなものなのか。
本書は、これらのテーマを、諸外国にみられる地域社会システムの事例研究などともあわせ、多方面から検証したシンポジウムの報告書である。
藤本幸也(みすず書房)
何の心の準備もなく突然の大災害に直面した時、人々は何を思い、どう行動したか。当時さまざまな立場にあった人々に著者が直接会い、聴取りをしたものをまとめた。
強いストレスのため、当日から三日間の記憶がない職員がいた。本能的な「なんとかしなければ」の思いが行動となり、住民を大火から守ることに成功した自治会役員がいた。
異常な状況に遭遇した人の心の内面を表現することは難しい。しかし、言葉に残すことで、今後の大災害に備える助けとなるよう著者は願う。
加藤紀子(神戸新聞総合出版センター)
「滅びゆくものはみな美しい。しかし滅びさせまいとする願いはもっと美しい」元兵庫県知事阪本勝氏の言葉である。
「野生に返すための飼育」決断から初めてのヒナ誕生(一九八九年)まで二十年。百羽めのヒナ誕生のニュースは耳に新しい。一九九九年、兵庫県立コウノトリの郷公園も完成した。白い麗姿が大空に帰る日を夢見て、豊岡に足を運んでみたくなる。
身近ないきもの調査運営委員会編 森川功一〔ほか〕編集・イラスト(神戸市体育協会)
本書では、市内で普通に見られる動植物約100種を紹介。
例えばカラスノエンドウ。名前の由来や別名、よく似たスズメノエンドウとの違い、笛の作り方などが書かれている。
またコラム欄の「神戸・生きもの案内」では、生息地なども紹介。
この本を片手に、身近な生きものをじっくり観察してみてはいかがだろうか。
食総合研究所(うまいもん探偵団)編集・取材 瀬川直子執筆(神戸新聞総合出版センター)
収録店数は九十四。和食、洋食、中華、そのほかの四部構成からなる。さらに各部は「歴史を作った味の店」、「いまの味の店」そして今や閉店してしまった「幻の味の店」の三項目にわけて紹介。座談会では食文化への提言も。「かき十」「キングスアームス」など知る人には懐かしい。
一店につき見開き二頁の記述と一枚のスケッチ画が添えられる。資料として巻末に掲載現在店のデータと予算の目安がある。神戸の食をリアルタイムで体験した人々が語る食の庶民史。
伊藤誠(神戸新聞総合出版センター)
新聞社で美術記者として活躍し、後に姫路市立美術館の副館長も務めた著者が、国内外の美術館の魅力や、そこに関わる人々について語ったエッセイ集。
美術館をとりまく様々な事情が、内側から関わった著者ならではの視点で描かれている一冊。
また、川西英や小磯良平ら、神戸ゆかりの画家たちについての思い出話も、どこか暖かく、興味深い。
伊勢田史郎(編集工房ノア)
著者は昭和4年生まれの詩人。
戦後の神戸で同時代を生きてきた詩人を中心に綴った評伝集。
酒を酌み交わした友、影響を与えられた先人たち。語り合った交流の様子を随所に織り込みながら、詩人たちの人物をとらえる。
その文章からは、著者の人間像もまた伝わってくるようで興味深い。中村隆について語る章は、故人への深い思いが伝わってくるもので心に響く。
朝比奈隆(実業之日本社)
指揮者の仕事は、オーケストラの演奏能力を引き出すことであり、人間関係が重要である。
著者は音大などの専門教育を受けず、サラリーマンから音楽家になった異端児だが、その分多くの人に出会い、様々な経験をした。その深みが良い関係を築く秘訣であるという。
他にも音楽の聴き方、演奏会の思い出、楽譜へのこだわりなど、自分の人生を振り返って綴ったこの本は、さらりと流れる音楽のようである。音楽や人生の楽しみ方が詰まった一冊。
表情豊かな写真集『朝比奈隆 円熟の80代』(木之下晃著 音楽之友社)も一緒にどうぞ。
百年以上前、鹿児島の地で反政府士族による反乱が起こりました。鎮圧まで七ヶ月余りを要した最大かつ最後の内戦、西南戦争です。
西南戦争は、開港から九年目の神戸に、経済の活性化やコレラの蔓延など、大きな影響を与えました。今やそれを知る人は少なく、市内に残る史跡もわずかです。
明治十年(一八七七)二月十四日、かねてから不穏な動きをみせていた鹿児島の士族一万三千人が、熊本城にむけて進軍を開始しました。翌十五日、西郷隆盛が反乱軍に加わると、九州各地の反政府士族が呼応して参戦しました。
四日後の二月十九日、政府は天皇より征討の命を受けると、ただちに神戸の弁天浜に運輸局、会計本部を置きます。京都―神戸間の鉄道が開通したばかりの神戸は、水陸両方の輸送力を買われ、大量の兵士や軍事物資が動く事実上の兵站基地となりました。
当時の市中の様子を、湊川神社の宮司だった折田年秀は「昨今より近衛兵ならびに海軍等追々繰込みたり。おおよそ四千余人なり。軍艦も同断、入津におよび候。鹿児島変動の音容、甚騒然たり。しかれども確報ならず」と日記に記しています。福原は兵士で賑わい、食料、ろうそく、わらじなどの物資の注文が大量に舞い込みました。
当時の神戸は、開港時の建設ラッシュも終わり、労働力が余っていました。物と人が動く戦争は、逼塞し始めていた経済の格好のカンフル剤となりました。
なかでも財を成したのが光村彌兵衛です。彌兵衛は、当時五十歳。所有する六隻の汽船はすべて軍事輸送のために徴用され、自らも輸送にあたりました。二週間以上一睡もせず、神戸と九州を行き来したといいます。政府から支払われた多額の輸送料の他に、九州からの帰路、別子銅山に寄って銅を買い、莫大な利益をあげました。
さて、西南戦争に動員された政府軍の兵力は、約六万人、そのうち戦死者は約七千人にのぼります。一方、反乱軍は、約三万人の兵力に五千人の戦死者が出ました。
中央区の追谷墓地に、政府軍に従軍した三人の警官の墓があると聞いて訪ねてみました。
郷土史家の調査(※参考文献)によると、追谷墓地に眠る三人は、それぞれ、鹿児島県、熊本県、茨城県出身の士族です。いずれも警視局四等巡査として政府軍に従軍し、反乱が終息した明治十年の秋に、神戸病院で病気のため亡くなっています。墓は十一年に建てられたそうです。
異郷に立つ三基の墓を探して墓地を巡りましたが、やっと行き着いた場所はすでに更地でした。
一方、中央区の安養寺には、反乱軍側の士族の墓があります。西郷隆盛に呼応して決起した筑前福岡党の人々の墓です。彼らは福岡城を襲い、逆に捕縛されます。
福岡党四百人のうち三十六人は、懲役囚として兵庫監獄へ送られました。が、佐林早太、中島庸一郎ら二十才から三十才の若者八名は、病に倒れ、神戸病院で亡くなりました。墓石は境内の一角に集められ、それが反乱軍の士族の墓だということは知る人ぞ知るのみです。
明治十年九月二十四日、西南戦争は、西郷らの死によって終息しました。
その二日前、兵庫港に停泊中の帰還兵七名がコレラを発病しました。コレラは猛威をふるい、翌年の六月までに四百八十九人が発病し、三百五十五人が死亡しました。皮肉にも、この災厄が神戸の環境衛生整備のきっかけになりました。
コレラという災難はあったものの、西南戦争がその後の神戸の繁栄の契機となったことは確かです。以来、港湾機能の重要性が注目され、本格的な築港が検討され始めました。また、戦争後に再び余った労働力は、マッチや石鹸などの軽工業の発展を助けました。
明治十五年、湊川神社に、戦死した政府軍兵士をまつる「忠節記念之碑」が有志によって建てられました。碑文の筆は、西南戦争の総督有栖川宮熾仁親王です。碑は今も境内に立っていますが、その意味を知る人は少ないでしょう。
一つの「明治」が、百年という時間の中に埋もれていきます。