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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
王子動物園のジャイアントパンダ
「きりん」は、戦後間もない昭和二十三年に、大阪で創刊された児童詩の雑誌です。当時、毎日新聞の大阪本社に勤務していた井上靖が、神戸で活躍していた詩人・竹中郁に声をかけて刊行が始まりました。
創刊後まもなく、竹中と同じ神戸で活躍していた足立巻一や、竹中の友人であった坂本遼も編集に加わりました。後には神戸で教師をしていた灰谷健次郎も参加することになります。
この「きりん」に掲載された児童詩は、「『赤い鳥』児童自由詩を受け継ぎ、その発想・題材・表現においてさらに一段前進させたもの」(『児童文学事典』東京書籍)と評されるほどのものでしたが、昭和四十六年の第二二〇号で休刊となりました。当館では「きりん」を所蔵していませんが、この雑誌に掲載された詩の多くは、『きりんの本・全三巻』(日本童詩研究会編・理論社)『きりんの詩集・全五巻』(灰谷健次郎編・理論社)などで現在も読むことができます。
雑誌「きりん」を所蔵されている方、当館にご寄贈いただける方を探しています。心あたりの方は相談係までご連絡ください。
小泉時・小泉凡編(恒文社)
「怪談」などの著作で知られる小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、ギリシヤに生まれた。幼少年時代をアイルランドで過ごし、アメリカでの新聞記者時代を経て、明治二十三年来日。八雲四十歳の時である。神戸には、明治二十七年から二年足らず滞在し、英字新聞「神戸クロニクル」の論説記者として健筆をふるった。
本書は、小泉家秘蔵の写真を中心に、八雲ゆかりの地や親交のあった人びとの写真などを交え、その足跡を綴ったアルバム。作家や批評家、新聞記者、教師、民俗研究家そして家庭人など多彩な顔を持つ八雲とともにその著作の原点がみえてくる。
服部良男(薬仙寺)
昔、中国や朝鮮半島では、不慮の死を遂げた人びとの魂はこの世をさまよい、人びとに祟ると信じられ、鎮魂の儀式が盛んに行われた。その様子を描いた仏画は、水陸画(すいりくが)、甘露幀(かんろちょう)などと呼ばれる。兵庫区の薬仙寺に伝わる「施餓鬼図」もその一つで、朝鮮李朝時代のものである。著者はこの図を丹念に読み解き、日中韓の生死観の違いについても考察していく。
馬場憲二・管宗次編(和泉書院)
江戸時代後期から明治時代にかけて関西で活躍した人物を五人紹介する。県下からは淡路の文人、山口睦斎(ぼくさい)と神戸華僑の王敬祥(おうけいしょう)がとりあげられた。
王は一八七一年(明治四年)中国福建省生まれの貿易商。辛亥革命に際し、革命支持の団体、中華民国僑商統一連合会を結成する。また、国民党神戸支部副支部長を務めるなど、神戸の地から孫文を支えた人物である。
柳原一徳(みずのわ出版)
今年は阪神大震災から「五周年」を迎え、節目の年と言われる。街は見違えるほど整備され、昨年には仮設住宅が解消、被災地の面影は徐々に消えつつある。だが著者は、順調とみえる復興の陰で、未だ震災の後遺症を引きずったまま暮らしている人々の存在が忘れ去られてしまうことを懸念する。五年をひと区切りとして多くの震災関連施策が打ち切られる現実がある。
本書は、震災以降の経過だけでなく、震災に至るまでの歴史をも踏まえて、記録に残したいという著者の思いから生まれた。
南悟(解放出版社)
ニッカボッカとは、工事現場でみかける腿の部分の大きく広がった作業ズボンのことで、定時制高校に通う生徒の多くがこの服装。教師である著者は、短歌創作を通じて、生徒たちに働きながら学ぶことの意味を考えるきっかけを作ってきた。
「まわり道多くの仕事経験しやっと見つけた自分の居場所」など、詠まれた歌には、現実の厳しさの中で、自信や誇りを回復していく様子が見えてくる。
鬼塚喜八郎(致知出版社)
神戸に本社をおくスポーツメーカー「アシックス」の創業者が経営にかける信念を語る。
昭和二十四年、アシックスの前身「鬼塚」は、スポーツシューズの製造会社として創業。バスケットやマラソンなど各競技専用シューズの開発に力をそそぎ、着実に成長した。「人の幸せを願う」という著者の根本的思想に、会社を大きくしえた経営者の人柄の良さを感じる。
北方謙三(中央公論新社)
鎌倉時代末期、近畿地方には「悪党」と呼ばれる勢力が台頭してくる。「悪党」とは身分制に関係なく、自らの才覚で兵力を貯えてきた者たちであり、幕府にとっては目ざわりな存在であった。その中に、河内の千早赤阪を本拠とする楠木正成、播磨の赤松円心がいた。
当時、京の都では後醍醐天皇が、その子護良親王とともに、鎌倉幕府打倒を画策していた。正成や円心は次第にその計画に引き込まれてゆく。こうして畿内を舞台に、元弘の変が始まる。
著者は、混乱の世を潔く生きる男たちを描いた。テンポのある展開は読者を歴史ドラマの中に引きこみ、飽きさせない。
岡田淳(17出版)
著者は神戸市在住の児童文学作家。発明家の教授と助手の珍妙なやりとりを描いたマンガ。突然、二人の前に五十年後の姿が現れる。「あと五十年も生きられるのか」と喜ぶ博士。一方助手は「五十年たっても助手か」とつぶやく。など、作品に共通するのは軽妙、ナンセンスかつシニカルな笑い。シンプルなペン画もとぼけた味わいで、笑いを誘う。
時実新子編著(神戸新聞総合出版センター)
昨年、神戸新聞読者の文芸欄で入選した川柳すべてを収録。月ごとに与えられた「題」をヒントに頭をひねった秀作が並ぶ。クスッと笑えるものあり、身につまされるものありと、作品の向こうには投稿者たちの生活がチラリと見える。
特選の一句には、時実さんのエッセイ風の選者評が添えられる。温かい人柄がにじむ短文は、作品を包みこみ、その世界をひろげてくれる。
「建築家光安義光」出版委員会編著(青幻舎)
昨年、八十歳で死去した光安氏の足跡を、学友、同僚や教え子たちの証言で振り返る。
彼は復員後、兵庫県営繕課に勤務し、県庁舎の設計にあたった。当時としては海外視察までして、庁舎を自前の職員で作ることは非常に珍しいことだった。
県在職中からも後進の指導に熱心だった光安は、県や神戸市、民間の設計者などを交えた勉強会を開くなどの活動もおこなった。さらに、退職後は明石高等専門学校で教鞭を執る。建築家光安の遺産は建物だけでなく、「人材」でもあった。
昭和二十六年三月二十一日、布引の電車道で、二頭のゾウが、走ってくる市電に驚いて遁走しました。二頭は、旧諏訪山動物園からこの日開園する王子動物園へ引っ越す途中の、インドゾウの「摩耶(マヤ)子」と「諏訪(スワ)子」でした。海側と山側に逃げた彼女たちは、ロープやパトカーや消防車でとりおさえられ、やっとのことで王子動物園の新居に到着しました。当時の新聞の見出しには「鼻のお嬢さん大暴れ」と出ています。
王子動物園の前身である諏訪山動物園は、昭和三年に神戸区有の動物園として開園し、「山の動物園」として市民に親しまれました。しかし、戦時中に猛獣を失い、終戦から七ヶ月後の昭和二十一年三月に閉園。残った動物たちは国際動物愛護協会に管理されました。
昭和二十五年、王子公園一帯で日本貿易産業博覧会(神戸博)が開催された際、神戸市が購入したインドゾウ(のちの摩耶子)が大人気となりました。その神戸博の跡地利用として王子に新しい動物園が生まれることになり、二頭目のインドゾウ「諏訪子」を購入。新しい動物園の開園にむけて準備が進められ、開園当日の最後の仕事が、摩耶子たち諏訪山に残っていた動物の引越しだったのです。
開園当初、飼育動物は四十六種(現在は約二百種)と、それほど多くなく、施設も不十分でした。その後関係者の努力や工夫によって動物は次第に増え、二世誕生など多くのドラマが生まれました。
グレイビーシマウマの子どもの誕生を皮切りに、チンパンジーの人工哺育、クロサイの子どもの誕生など、開園から十年余りの間に「わが国初」が次々と起こります。やんちゃな雄ゾウ「太郎」が堀に落ちる騒動や、脱走したペンギンが深夜の市道を散歩中に捕まえられるという珍事も、新聞紙面を賑わせました。
王子動物園の開園から三十年後の昭和五十六年、ポートアイランド博覧会に、天津動物園からジャイアントパンダの「蓉蓉(ロンロン)」と「寨寨(サイサイ)」がやってきました。王子動物園と天津動物園とは、以前から友好動物園として動物の交換や飼育員の交流研修を行ってきましたが、この時にも両動物園の飼育員で共同チームが組まれました。
すでに上野動物園にはジャイアントパンダがいたとはいえ、関西では初のお目見えです。愛くるしいパンダの姿は観客を魅了しました。また王子動物園にとっても、希少動物で国外に出すのは難しいといわれていたパンダを、半年もの間借り受け、無事に飼育できたことは、大きな成果となりました。
十九年後の今年、再び中国から二頭のジャイアントパンダがやってきました。二頭には、震災復興と二十一世紀の幕開け(元旦)への期待をこめて、「興興(コウコウ)」「旦旦(タンタン)」という愛称がつけられました。
今回は中国との共同飼育繁殖研究のため、パンダは十年間神戸に滞在します。王子動物園が、以前天津から贈られたキンシコウを中国国外で初めて繁殖させたことを買われたのです。長年にわたる友好関係も背後の力となったことでしょう。北区淡河(おうご)産のササを元気に食べる二頭に、二世が誕生する日が楽しみです。
来年三月に開園五十周年を迎える王子動物園。二十一世紀にはどんなドラマが生まれるでしょうか。