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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
北野町・ラインの館
神戸家具は生産量こそ多くはないが、神戸の主要な地場産業のひとつである。なかには明治五年創業の商店もあり、明治十五年刊行の『豪商神兵湊の魁』にも西洋家具店が紹介されている。
初期の家具商は、外国人が持ち込む家具の修理や、外国船の室内装飾や設備を、見よう見まねで作り始めた者や、外国人が帰国の際に処分する家具などを扱う古物商から、製造に移っていった者たちであった。曲線的な西洋家具の製作には、神戸に出稼ぎに来ていた、香川県塩飽諸島の船大工の和船製造技術が生かされた。
神戸市立博物館には、「明治十八年天池徳兵衛」の銘のある欧風の椅子が所蔵されている。日本で最も古い西洋家具のひとつとされるが、その力強いフォルムに、当時の家具製作技術の水準の高さをうかがうことができる。
全国に根強いファンを持つ神戸家具は、親から子へ、孫へと伝えられる。大量生産大量消費の現代にあっても、良いものを長く使うという生活スタイルがここにある。
吉村昭(読売新聞社)
兵庫県播磨町に生まれた彦太郎(のちのジョセフ・ヒコ)は、乗り込んだ船が漂流したところを、アメリカ船に助けられて、サンフランシスコに渡った。彼は、十三才という若さの持つ柔軟さと、謙虚で勤勉な性格のためか、知己にめぐまれ、語学力を身につけて帰国し、幕末明治に、通訳として活躍した。
渡米中大統領と会談する機会に恵まれたり、微妙な外交折衝の場で働くなど、彼のたどる人生は希有なものである。本書では、当時、捕鯨船や清国との貿易船に助けられた彦蔵以外の漂流民の足どりも、史実をふまえて、ていねいに描かれている。
中田高・岡田篤正共編(東京大学出版会)
野島断層は、平成七年一月の兵庫県南部地震で淡路島北部の地表に出現した活断層である。断層による地変は生活上の不便さや危険をもたらすため、補修や削りとりがすすみ、現在は、天然記念物として野島断層保存館にその原形をとどめるだけである。豊富な写真と図で解説された本書は、断層を知り、防災や耐震建築を考えるうえで、また一つの地震記録として貴重な資料といえる。
加賀美常美代[ほか]編(ナカニシヤ出版)
震災一年後に行った追跡調査をもとに、外国人学生が震災によってどんな被害を受けたか、その衝撃と心の傷はどうだったのか、また支援活動がどれくらい機能したのかを、詳細に調査、分析し、今後の外国人留学生支援のあり方を探った。この本には多文化共生社会への多くの示唆が含まれている。
神戸新聞社編(神戸新聞総合出版センター)
故郷、家族、友だちとの絆をテーマに、兵庫県出身の人や、兵庫県を「第二の故郷」とした人たちの歴史を綴った本である。
ある女性は、昭和三十七年、沖縄の中学を卒業して神戸に就職した。後、さまざまな職業をへるが、大震災で経営していた飲食店を閉じることになる。これから彼女は、故郷沖縄で「神戸家チャンプルーサラダ館」という食堂を開くという。
他に、南米移住、大陸からの引き上げ、戦争孤児、過疎化など、戦後の日本が抱えたさまざまな問題の中を歩んだ人たちの物語が紹介されている。
日本児童文学者協会編(リブリオ出版)
ふるさとを題材にした童話や詩を都道府県別にまとめたものの一冊。神戸では、風見鶏になったニワトリ、廃業を覚悟しかけた老靴屋に道化師の靴を注文に訪れた青年、帰国を夢見てがんばるベトナム人チム一家の話などが収録されている。兵庫県は日本海と瀬戸内海に接し、それぞれ環境や暮しぶりも、ずいぶんと違う。神戸だけでなく、いろいろな特色をもつ兵庫県のお話を楽しむことができる。
玉川侑香詩・後藤栖子絵(比良出版)
本書は二年前に出版された同名の詩集の標題作を絵本に仕上げたもの。
著者は関西弁で日常を詠むことにこだわり、震災の中から力強く生きようとする人びとを、いくつもの詩の中に詠んでいる。
ドーンという一撃で息子、嫁と孫を一度に失い、たった一人助かった女性の後悔と、再び生きようとする姿が、淡彩の中から立ち現われてくる。
湯浅夏子(神戸新聞総合出版センター)
大正十年、神戸購買組合と灘購買組合が誕生した。コープこうべの前身である。やがてそれぞれに「家庭会」が組織され、生協から品物を買うだけでなく、女性が積極的に消費者活動にかかわっていく。「家庭会」の精神は、現在のコープこうべの多岐にわたる生活文化活動に、そのまま引き継がれている。
著者は、ひとりの主婦組合員から出発し、三十年あまりを生協とともに歩んできた。本書はその軌跡であり、ともに歩んだ女性たちの軌跡でもある。
(Community House & Information Centre)
神戸に暮らす外国人向けの英文ガイドブックで、震災後初の改訂。住まいや教育、レジャー、病気など、緊急事態から生活全般に対応。交通機関の章では、優先座席、定期券の購入方法、市バスの老人優待券の交付にまでふれている。また「tasukete!助けて=Help!」「yachin家賃=monthly rent」など、よく使う日本語をとりあげ、ローマ字を付している。日本の生活習慣やマナーを紹介するコラムもある。
(平凡社)
古代から現代までのいわゆる行政地名はもちろん、山や川などの自然の名称、古墳や城跡などの遺跡の名称、湊、橋など交通や産業における名称、さらに寺社や庭園など、あらゆる歴史地名を網羅して解説している。
「地名はその土地に生死した人々の歴史、生活・精神史の貴重な索引である」と刊行のことばにあるとおり、地名のなかに歴史を読むことのできる大事典である。
林俊・クロード・ピショワ共著(白亜書房)
小松清は明治三十三年、現在の神戸市兵庫区に米穀商の長男として生まれた。生家がペストや米騒動に見舞われる中で、少年清は社会革命へと惹かれて行く。二十一歳でやって来たパリで、若き日のホー・チ・ミンや作家アンドレ・マルローと出合い親交を深めていく。その後、彼はマルローやジイドの翻訳者として活躍し、日仏の文化交流に大きな役割を果たした。
豊富な資料をもとに、日仏を股にかけ、常に行動する人であった清の人間像を浮き彫りにした評伝である。
新長田図書館には、わが街再発見コーナー(「街・デザイン」)のほかに、もう一つ別のコーナーがあります。区の特色を生かした「韓国・朝鮮図書コーナー」です。
コーナーには、約千冊の日本語で書かれた本と、約四百冊のハングルの本、新聞や雑誌、ビデオやCDもあります。
日本語で書かれた本では『フリーウェイ韓国語』『キョンファさんのコリアンクッキング』など韓国・朝鮮語学習の本、韓国料理・朝鮮料理の本が、また『愛を感じるとき』などの話題作もよく利用されています。『NHKラジオ・ハングル講座(カセット付)』バックナンバーも好評です。
ハングルの本では、絵本がよく利用されているほか、日本語を学ぶための本や、料理の本などがよく利用されています。また『東亜日報』『新東亜』『女性東亜』などの新聞・雑誌も人気があります。
新長田図書館で、これまで知らなかった新しい神戸を発見してください。
明治の初めから昭和の初めにかけて、六甲山上では、厳寒期、マイナス十五度まで下がるという気候を利用した製氷業がさかんでした。現在山頂付近にある大小三十余りの池のほとんどは、当時採氷のために掘った池だそうです。そこで作った氷を市街地へ運び下ろすための道が、六甲山上の、前が辻から六甲ケーブル下へと続く「アイスロード」です。
居留地に住む外国人の需要に応えるため、神戸では早くも明治二年に、遠く函館から運ばれてきた氷が販売されました。そして明治十年頃には、六甲山上の気温に目をつけた業者が、山上に氷池を試掘し、天然氷の製造販売に乗り出しました。製氷業に従事したのは、おもに葺合村、篠原村、八幡村、住吉村、本山村、唐櫃村の人びとでした。
冬になり、池に厚い氷ができると、製氷用鋸で、厚さ十五センチメートル、九十センチメートル四方に切り取ります。それを二枚ずつ重ね、おがくずを敷いた池のそばの氷室に筵をかけて保存します。二枚が合わさり厚さ三十センチメートルになった氷は、春から夏にかけて、牛の背や大八車で三宮や栄町まで運ばれました。氷がとけないように、夜十一時から車や牛を山上へあげ、明け方までに、月明かりやちょうちんの灯りを頼りに、急なアイスロードを下りました。車の後ろにはブレーキがわりの材木をくくりつけたといいます。
運び下ろされた氷は、外国人の需要以外は、病人用として求められました。明治後期になると、夏場に「カンゴーリ、カンゴーリ(寒氷)」と呼ばわって売り歩く行商人も現れました。注文があるとカンナで削り、コップ一杯を五厘から一銭で売ったそうです。
最盛期と思われる明治三十年頃には、年間五千トンもの天然氷を産出し、市内の卸売り業者は七十余名、販路は下関まで広がりました。が、その後、人工製氷の発達とともに、天然氷は次第に姿を消して行きます。最後に採氷されたのは、昭和四年、記念碑台のそばの黄楊池だったそうです。
製氷業に代わって、大正の初め頃から山上の池を賑わすようになったのは、星野池、三国池、八代池などを天然リンクとしてスケートを楽しむ人々でした。大正七年には「六甲スケート倶楽部」も発足しました。昭和に入ると、ホテルやカンツリーハウスが開設されるなど、六甲山の観光開発が始まりました。昭和十三年二月号の「カウベ」(神戸市観光課発行)には、「三十に余るリンクの不連続線は、優に一日の六甲スケートハイキングを楽しんで余りがある。八代、三国のリンクには貸しスケートの準備もある」と宣伝されています。
三国池でスケートをする外国人「Inaka」より
年々の温暖化と都市部の屋内リンクの登場で、戦後、天然リンクはなくなりますが、昭和三十八年、人工スキー場が開設されました。
かつて、柴を刈り、氷を運ぶ生業の山だった六甲山は、神戸の近代都市化とともに、レジャーの山へと姿を変えていきました。アイスロードもその役目を終え、現在は、ハイキングコースとして整備されています。