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最終更新日:2024年9月22日
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-神戸ふるさと文庫だより-
堀君が見惚れて佇んだハンター邸はもとの場所から移築されて王子公園の近くに家の姿だけはみることができる。(「神戸から」竹中郁 より)
堀辰雄が、神戸の詩人・竹中郁の詩集出版記念会への出席を兼ね来神したのは、昭和7年の年末でした。2人は昭和2年に芥川龍之介の紹介で出会って以来、親交を深めていました。この年、堀は体調がすぐれなかったようですが、それを押して神戸に来たのも、竹中への友情の表れと言えるのかも知れません。
神戸に着いた堀は竹中と落ち合い、2人で堀が宿泊するホテルを探しに出かけます。翌日からは竹中の案内で神戸を観光し、稲垣足穂を訪ねたりもしました。年末の神戸港は外国航路の船もなく寒々としていましたが、堀は、山手の古びた異人館の情緒に心を惹かれていたようです。後年、竹中は2人の共通の友人を北野に案内しながら、あれは「堀辰雄が住みたいといった家」だとか、これは「堀辰雄が、プルストの家と命名した家」などと、道々、楽しそうに語っています。
堀辰雄の小旅行は翌年、『旅の絵』という作品になりました。神戸のエキゾチックな情景を描いたこの短篇には、「竹中郁に」という献辞が添えられました。
柴田昭彦(ナカニシヤ出版)
江戸時代中期から大正前期にかけて、大阪堂島の米相場は、見通しのよい山から山へと旗を振ることで伝達された。堂島から岡山まで21分で通信できたという。著者は各地の旗振り山に登り、郷土資料に基づき実地調査を行って、謎の多かった旗振り山の通信ルートをまとめた。空気の澄んでいた昔、山のてっぺんで一畳ほどの大きな旗を振って合図をしたとは、どこか愉快である。ハイキング情報も詳しいので、登ってしばしタイムスリップしてはどうだろう。
山口泰雄(大修館書店)
豊かなスポーツライフの実現と、スポーツを通した地域コミュニティづくりのために、平成12年度から始まった兵庫県の事業「スポーツクラブ21ひょうご」。県内の全827小学校区に設置されたスポーツクラブは、「多世代、多種目、小学校区、会員による自主運営」で活動している。本書は20の事例を紹介。クラブによって変わる「まち」を考察する。
陳舜臣(朝日新聞社)
著者は神戸在住。毎週、六甲山を眺めながら執筆したという108編のエッセイは、平成15年10月から今年3月まで『朝日新聞』に連載された。ただし、平成17年4月以降は大阪本社版にしか掲載されなかったため、東京の読者には待望の刊行といえる。
「神戸居留地と中華街誕生」「早すぎた路面電車の退場」「ポーアイ命名の舞台裏」といった神戸ゆかりの内容のほか、「辮髪姿だった幼い父」「博愛と反戦を貫いた墨子」など、家族や自分への追想や折々の世情を組み込みながら綴られる。神戸に生まれて半世紀を越える著者の筆は自在に時空間を往き来して、さらりとした文章は深い余韻を残す。
中村よお(創元社)
著者の好きな居酒屋が、旨い肴と酒、街の人と空気とともに語られる。年長の人に混じって盃を傾け、大人の仲間入りをした気分にひたれた若い頃。音楽仲間とわいわいと、また一人静かに、そして震災の時も、街の中、店の中で違う世代の違う世界の人としっかり繋がりながら、酒を飲んできた。自分を育んでくれた居酒屋に感謝の念をこめて書いたという、居心地のよい空間が目に浮かぶ1冊。
ビジュアルブックス編集委員会編(神戸新聞総合出版センター)
「近代化遺産」とは、幕末の開港以来、終戦までの約80年間に築かれた建造物や文化の総称である。本書は、そうした遺産を兵庫県教育委員会の調査リストを基に選んだガイドブック。煉瓦で美しく組まれた旧居留地の下水道管や、趣きのある兵庫県公館、現在は市営地下鉄みなと元町駅となっている旧第一銀行神戸支店など。各々に添えられたモノクロ写真がその風格を静かに伝えてくれる。
佐野眞一編著(平凡社)
本書は3部から成る。第1部は自称「中内ダイエーウォッチャー」である編者による、ダイエーの産業再生機構入りから中内氏の葬儀までのドキュメントと、流通業界関係者へのインタビューをまじえたダイエー論。第2部は野田正彰氏ほか九人によるダイエーと中内氏についての評論集。第3部は編者と堤清二氏との対談。巻末には「中内功およびダイエー関連史・一般社会史年表」が添付されている。
高度成長期時代、中内ダイエーが目指して成しえなかったものとは何かが、全編を通して浮かび上がってくる。
斉藤真木子(文芸社)
「中国民間玩具」というと少し分かりにくいが、中国の子ども達が遊ぶ「おもちゃ」のことである。
著者は20歳代より郷土玩具の蒐集、研究を開始。夫の転勤に伴い中国に渡ってからは、中国玩具の蒐集を始めた。神戸に住む現在も蒐集は続き、コレクションは1万点を超える。本書はその中から、土、木、竹、布、紙で作られたものを紹介している。
中国の物語や伝説の主人公を模した人形、赤や桃色が鮮やかな凧。中国版マトリョーシカは「お座り」している虎で、大層可愛い。解説は簡潔で、興味をそそる。見ても読んでも楽しい、まさに「おもちゃ箱」のような1冊だ。
今井鎮雄(神戸新聞総合出版センター)
終戦直後から神戸を中心に、社会福祉、ボランティア、教育、国際協力など各方面で活躍してきた著者の初めての本。論文、講演原稿、座談などが5つのテーマに分けて収録されている。全編から伝わってくるのは他人に対する深い愛情であり、これこそが著者の行動の規範であることが良くわかる。
基本的な人格をもった個人と個人が深い交わりを持つ共同体を形成することが、福祉にとって最も大切である、という著者の言葉がとても印象深い。
赤松弘一(昭和堂)
著者は中学の理科教諭。自然のおもしろさや驚きを伝えるために十数年にわたり生徒に配布してきた「理科通信」が本書のもとになっている。
兵庫県各地で見つけた動植物や昆虫が、わかりやすい文章と精緻なイラストで描かれており、本書の世界に魅了された読者を、本物の自然探検へと駆り立てることだろう。
『神戸覧古』は、明治34年(1901)、若林秀岳によって描かれた江戸時代の神戸の風景画帖です。天保10年(1839)八部郡二ツ茶屋村(現在の元町6丁目浜側)で生まれ、大正4年(1915)77歳で亡くなった秀岳は、幼い頃から画家を志し、風景画家として淡白で写実的な画風を築きました。
開港後、急速に発展していく神戸を目の当たりにした秀岳は、開港前の姿を描きとどめておこうと、旧記や記憶をもとに江戸時代末期における神戸を描きました。描かれた風景は、おもに兵庫津やその周辺と範囲は広くありませんが、当時の神戸の様子を伝える資料として、貴重なものとされています。
19世紀にアメリカで生まれたジャズ。黒人の民俗音楽と白人の西洋音楽との融合により生まれたジャズは、高度な演奏技術と何が飛び出すかわからないアドリブ、そして独特のスイング感覚が魅力です。日本へは大正時代の中ごろに、アメリカ船のダンス・バンドが持ち込んだと言われています。
開港地であった横浜と神戸のどちらが日本のジャズ発祥の地であるかはわかりませんが、どちらも独自の文化を開花させました。
横浜ではチャブ屋と呼ばれる外国人向けのジャズバーが登場し、徐々に日本人へと広まりました。
一方、関西ではダンスミュージックが盛んで、神戸でもオリエンタルホテルやNHKホールで外国人のダンスパーティが開かれ、日本人も演奏を務めるようになりました。関東大震災で関東を離れ関西へやってきた外国人も多く、一層の賑わいをみせました。
大正12年、宝塚少女歌劇団に所属する傍らジャズを演奏していた井田一郎が、歌劇団を退団し、神戸で「ラフィング・スターズ」を結成しました。日本人初のプロジャズバンドの誕生です。このバンドはわずか5ヶ月で解散してしまいましたが、井田はその後、大阪でもバンドを結成し、観客を沸かせたと言います。
昭和に入り関東大震災の復興が進むと、外国人たちは東京へと引き揚げ、著名なバンドもそちらへ流れて行ってしまいました。
戦時下の海外音楽禁止により下火になったジャズですが、終戦後まもなく、進駐軍のラジオ放送で再びその音色が流れ始めます。昭和27年にはラジオ神戸(現AM KOBE)が開局し、世界中の名曲を放送。この時始まった「電話リクエスト」は一大ブームを巻き起こしました。
昭和30年代に入ると、学生を中心にアマチュアバンドが次々に結成され、中でもトランペットの名手、右近雅夫率いる「デキシーランド・ハート・ウォーマーズ」は絶大な人気を誇りました。「神戸はデキシーランドジャズのメッカ」と言われる礎は、この時期に築かれたようです。ジャズ喫茶では毎日のようにライブが行われ、ファンを熱狂させました。
昭和47年の『ジャズ百科事典』を見ると「神戸は粋な街だ。世界の流行を身につけている。(中略)ジャズを聞く所も、この街らしい洒落た雰囲気だ」とあります。
そのイメージを反映してか、文学作品にもお洒落な神戸のジャズバーが登場します。村上春樹の『風の歌を聴け』では「ムーンライトセレナーデ」のような雰囲気のあるバーが、森詠のハードボイルド『真夜中の東側』ではトランペットが流れるバーが、舞台となっています。
一方でまた、バンドと観客が一緒に歌う家庭的なところが、神戸ジャズの魅力であるとも言われます。村松友視が『旅を道づれ』の中で「神戸のジャズ……というのもまた、東京のライブハウスのピンと糸を張ったようなムードとはちがい、街に洗いざらしのジャズがあるといった感じだ。(中略)歌手が、うれしそうに『サテンドール』を歌えば、遊びに来ていた別な店のサックスが興にのって参加する」と述べていますが、神戸ジャズは観客と共に育った、と言ってもいいかもしれません。
数は減りましたが、ジャズを楽しめる名店は今もたくさんあります。「スインギングナイツ in KOBE」のように、気軽にジャズバーに立ち寄れる企画も登場しています。
ポートピア’81の翌年に始まった「神戸ジャズストリート」は、今年で25回目を迎えました。他にもボーカルコンテストや中高生のフェスティバルなどが開催され、若い世代の間でもジャズが盛り上がってきています。
「ラフィング・スターズ」結成から80年あまり。神戸に根付いたジャズは少しずつ形を変えながら、今も人々の心を魅了しています。