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最終更新日:2023年7月27日
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-神戸ふるさと文庫だより-
「阪神・淡路大震災 慰霊と復興のモニュメント」(東遊園地)
阪神・淡路大震災から10年を迎えた今年1月、神戸を会場に「国連防災世界会議」が5日間にわたり開催された。世界規模で防災を考えるため、世界168ヵ国から4千人を超える人々が一堂に会した。
阪神・淡路大震災後も世界各地で続く災害。昨年末にはスマトラ沖地震で発生した津波により死者・行方不明者30万人以上という想像を絶する被害があったばかりである。
アルジェリア、イラン、モロッコ…。次々と起こる自然災害のニュースの中で、阪神・淡路大震災は風化してしまうのではないか、との危惧がある。しかし、阪神・淡路大震災は、災害・防災を考えるとき、絶対に忘れてはいけない、また、忘れられないできごとである。今回、防災世界会議の開催地に神戸が選ばれたのもその証であろう。もちろん、ひとりひとりの「風化させてはならない」との強い思いと努力。これを忘れてはならない。
図書館界でも先日、「図書館と災害を考えるシンポジウム」を神戸で開催し、あらためて震災の教訓を話し合う機会となった。
加藤いつか(ふきのとう書房)
震災の年の夏、全壊した家の跡地に咲いた一輪のひまわり。それは、そこで亡くなった女の子の名前から「はるかちゃんのひまわり」と呼ばれた。
彼女の姉である著者は、当初ひまわりを見るのが辛かった。「自分が死んでしまった方がよかったのではないか」と思い悩み、不登校、自傷行為と苦しむ。が、亡くなった妹を通していろいろな人達と出会い、震災と向き合うようになる。現在著者は、震災の語り部としても活動している。
この実話をもとにした『あの日をわすれない はるかのひまわり』(指田和子作 鈴木びんこ絵 PHP研究所)という絵本もある。
阪神淡路大震災1.17希望の灯り・毎日新聞震災取材班(どりむ社)
10年間に増え続けた236箇所の震災モニュメント。それは死者への鎮魂であり、震災を後世に伝えていく決意でもある。
本書はそんなモニュメントを紹介するだけでなく、多くの人のインタビューを集める。新しい生活を始めた人、立ち止まったままの人と様々だが、モニュメントの周辺では人々が支え合って暮らしている。
神谷秀之(神戸新聞総合出版センター)
「現場に帰れ」「現場に聞け」―真実を追究する鉄則である。
第1部は震災直後の神戸市幹部職員の現場での取り組みを再現。第2部では日本の中央集権システムの問題点を、主に国と自治体との関係に焦点を当てて解説する。
読者は第1部を通じて「現場に聞き」、第2部で危機管理と自治意識について再考させられる。
土方正志文・奥野安彦写真(偕成社)
小料理屋「てつびん」をひとりで切り盛りするおばちゃん。夫を亡くし、震災に遭い、それでも「生きとっただけめっけもんや」と笑いとばし、プレハブで営業再開。でも、誰もが生活の建て直しに必死で、お客さんは以前のようには集まらない。そんなとき、今度は病魔がおばちゃんを襲う。それでも頑張るおばちゃんだったが…。「てつびん」の灯を消してから約1年後、懸命に生きたおばちゃんは帰らぬ人となる。
震災直後からおばちゃんと親交を深めたカメラマンとライターによる、ひとりの被災者を追った写真記録集。
八木俊介(月刊センター出版部)
「レインボーハウス」はあしなが育英会により、震災遺児の心のケアセンターとして平成11年に竣工された。
本書は「月刊センター」に掲載された著者の同名のエッセイに「建設までの道のり」を加筆したもの。彼自身、交通遺児であり、震災遺児の心の傷に向き合うことは、己の心の傷と闘い続けることでもある。
震災直後から10年間の記録。
メモリアル・コンファレンス・イン神戸(日本放送出版協会)
本書は「正しい被災者になるための入門書」であり、78の疑問に対する答えが分かりやすく書かれている。
大震災を経験したさまざまな分野のメンバーにより執筆された。「意外に役立つ身近なものは」など、子どもにもわかりやすい内容で、災害を乗り切るための多くの教訓や知恵を得ることができる。
金芳外城雄(日本経済新聞社)
あの1月17日から始まった復興への長い道のり。本書は、地震発生から現在に到るまでを、神戸市の取組みを中心に、病院、学校等現場の体験談も交えながら辿っていく。あの頃は出口のないトンネルに思えた。今この本を読むと震災発生時「具体的に何をしていき、中長期的課題にどう対応していくのか」、震災の遺した教訓が、整理され見えてくる。付録CD-ROMも本編に劣らぬ充実ぶりだ。
柳田邦男編(岩波書店)
神戸の街は震災から立ち直ったかにみえるが、本当にそうなのだろうか。
第1章では柳田邦男が、震災の教訓は中越地震等に活かされたのかを、災害弱者の立場から改めて問いかける。
第2章以降は、「震災10年 市民検証研究会」の調査・報告を中心に、震災の混乱の中からうまれてきた様々な市民活動を紹介する。
たかとう匡子(編集工房ノア)
詩人であり、長く教職にあった著者が、これまでに雑誌や新聞に発表したエッセイをまとめたのが本書。
ゆかりの作家や文学作品から意外な神戸との接点・逸話などを交え、神戸の歴史をみる。また、最初の章を「震災のなかで」と題する。出勤途上目にした風景や身の回りのできごとから、震災直後から復興へと向かう神戸の姿を綴る。
阪神・淡路大震災記念協会編・発行
阪神・淡路大震災直後から、兵庫県や神戸市の各現場責任者、学識者たちは、復興へどのように立ち向かっていったのか。
復興資金の調達、生活支援、教育、ごみ問題など、課せられた課題は山積していた。これまでに例のない困難な課題を抱え、復旧ではない、復興を目指しての取り組みが始まった。
当時の現場担当者たちの手による、24のテーマから成る復興活動記録。
高嶋哲夫(集英社)
タイトルのM8とは、マグニチュード8のこと。もし今、首都東京で大地震が起こったら。そんな状況を最新の研究をもとにシミュレーションした小説。
2005年12月、東京直下でM8レベルの大地震が起こる。個人の研究結果からこの地震を予知した一人の学生と元地震学の権威、災害救助を目指して自衛隊に入隊した男、防災対策の重要性を唱え活動する国会議員とその秘書。それぞれがあの阪神・淡路大震災で大切な家族を失い、挫折を味わい、その後の人生も大きく変えられていった人々であった。そんな彼らが、人々を、街を救うため立ち上がる。
人々は太古の昔より地震に脅えて暮らしてきました。地震を「なゐ」と呼び、「地動」「地震」と表しました。古くは、『日本書紀』にも地震の記述がたくさん見られます。
「壬辰、逮于人定、大地震。擧國男女叫唱、不知東西」(壬辰(みずのえたつのひ)に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大(おほ)きに地震(なゐふ)る。國擧(くにこぞ)りて男女(をのこめのこ)叫(さけ)び唱(よば)ひて、不知(ま)東西(ど)ひぬ。)(『日本古典文学大系』68『日本書紀』下「天武天皇」)
突然の大きな地震で逃げ惑う人々の様子がよくわかります。
平成7年(1995)1月17日未明、神戸を大地震が襲いました。命あるもの、人々が築いてきた多くのものが一瞬のうちに傷つき、奪われました。地震が少ないと言われていた神戸において、このような大地震は初めてだったのでしょうか。
今から約400年前の慶長元年(1596)閏7月13日、近畿一帯を大きな地震が襲います。慶長の大地震とも、伏見大地震とも呼ばれる地震です。震度はマグニチュード7.5ぐらいであっただろうと推測され、京都の伏見あたりを中心に畿内にその被害は及びました。
この地震の事実を伝える記録として、権中納言山科(やましな)言経(ときつね)の日記『言経卿記(ときつねきょうき)』があります。これには、「兵庫在所崩了、折節火事出来了、悉焼了、死人不知数了」とあり、地震の大きさを簡潔に記しています。
また、須磨寺の『当山歴代(とうざんれきだい)』には、僧侶と巡礼中の人々約150人のうち、2人が「微塵」となり、残りの人々も障害を残す身となったとの記述が残されています。そして、町の様子を、兵庫は一軒残らず崩れ、そのうち出火して、死んだ人の数はわからない、と書いています。
当時、兵庫津のあたりは、天正8年(1580)に築城された兵庫城を中心に、整備された「町」が形成されていたと考えられます。兵庫津遺跡の発掘調査では、遺構の一部は焼土層に覆われ、大規模な地震に起因する現象の痕跡も見つかりました。出土した遺物の年代から、16世紀後半の頃とみられ、慶長の大地震によりこの一帯が被災したという事実が、考古学的に立証されました。
西求女塚(にしもとめづか)などの古墳にも、この大地震によるものと考えられる墳丘の地滑りの跡がはっきりと残されています。
『有馬温泉古由来』享保2年(1717)
報告書に、「この津の国(摂津)には、日本国全土でもっとも有名な諸々の温泉〔有馬温泉など〕があり、(中略)それらには湯治客が滞在していたが、その倒壊によって、人の噂によれば、600人以上が押し潰されたとのことである。」と書いています。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第2巻 松田毅一監訳 同朋舎)
この内容の真偽には疑問があるようですが、有馬に大きな被害があったのは事実でした。
有馬は秀吉が愛した温泉場です。『有馬温泉史料』には地震後、湯の温度が上がったとあり、また、これより2年前に秀吉が建てた湯山御殿(ゆのやまごてん)は大破してしまいます。この湯殿は2年後に再建されるのですが、新しい湯殿に秀吉が入ることはありませんでした。完成したこの年、秀吉は亡くなりました。
400年前に比べ、人々の暮らしは格段に便利になっています。多くの情報を簡単に手に入れることもできます。しかし、突然の自然の猛威の前で立ちすくむ姿は、当時の人々といくらも変わらなかったのではないでしょうか。ただ、現代に生きる私たちには、記録し、分析する力があり、後世に伝える術があります。失ったものはあまりに大きなものでしたが、きっとこの経験が今後に生かされるに違いありません。
『兵庫県地震災害史-古地震から阪神・淡路大震災まで』寺脇弘光著 神戸新聞総合出版センター ほか