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最終更新日:2023年7月27日
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-神戸ふるさと文庫だより-
トーテム・ポール
アメリカ大陸の北西海岸地域で見られる動物や神話をテーマに彫刻されたトーテム・ポール。実は、神戸にもいくつかあります。そのうちの一つ、市役所の花時計の奥にある大きなトーテム・ポールを目にされた方も多いのではないでしょうか。
高さ9メートルのこのトーテム・ポールは、昭和36年に神戸の姉妹都市であるシアトルから両市の友情を深めようと贈られたもので、「トーテム・ポールの物語」が添えられていました。
「太平洋をはるかにへだてて、一つは東 一つは西に二つの美しい町が栄えていました」と始まるこの物語は、背中あわせだった神戸とシアトルが戦争を乗り越え、友情の橋をかけて永久の平和を願う物語です。トーテム・ポールは下から順番にこの物語を表現した模様になっていますので、横にある案内板の説明とあわせて見ると、より興味深く味わえます。
「山を背に 海をひかえた 二つのよく似た町」神戸とシアトル。今年で姉妹都市の提携を結んで50年になります。
巽慶子(沖積舎)
「神戸のお家はん」こと巽テルは幕末の伊丹に生まれ、京都、大阪と移り住みながらお茶子から身を起して神戸・八千代座の「仕打ち」となった。「仕打ち」とは芝居や見世物の興行主のことであり、本書では、興行を取り仕切る様子や役者とのやり取りが、いきいきと描かれている。
著者は孫の慶子さん。花隈に住んでいたテルの人生だけでなく、テルを通して語られる歌舞伎役者らの素顔や花柳界の話も面白い。
神戸ゆかりの美術館編集・発行
平成19年3月、六甲アイランドに開館した、神戸ゆかりの美術館の第1回展覧会解説図録。
普段、市民の目にふれることがない、神戸市役所などの施設に掛けられている美術作品を含め、神戸にゆかりのある芸術家の絵画や彫刻を集めて展示するというのが同館のコンセプトである。金山平三や西村功など102点の作品が紹介されている。
のじぎく兵庫大会実行委員会編集・発行
平成18年9月30日から10月10日にかけて開催された「のじぎく兵庫国体」と10月14日から16日まで開催された「のじぎく兵庫大会」の報告書。
両報告書とも、種目ごとの記録や写真が豊富に収録され、男女とも兵庫県が総合優勝を飾った国体の報告書は、兵庫県の選手を中心に編集されている。
共通のマスコット「はばタン」人気などで大いに盛り上がった両大会の熱闘や感動が、鮮やかに蘇ってくる。
Harold S.Williams(Adam Matthew)
著者のハロルド・ウィリアムズはオーストラリアから大正8年に来神し、戦争の一時期を除いて生涯のほとんどを関西で過ごした実業家だが、著作や趣味としての資料収集でも有名であった。
本作品は、英語で書かれた138篇の資料を34本のマイクロフィルムに収録している。当時の日本の社会や文化を知るには貴重な資料で、神戸に関するものも多く、興味深い。(この資料は本ではなく、マイクロフィルムです)
竹内和夫(編集工房ノア)
島尾敏雄、高橋和巳らを輩出した老舗同人誌『VIKING』。
『酩酊船』『姫路文学』を経てその同人となった著者は、以来半世紀以上、同人誌界および後進の支援に関わる活動を続けている。
本書は、同人誌や親交のあった同人たちについて、著者が過去に綴ってきた文章を、ほぼ時系列順に構成したもの。創作の場に集う人々の熱気や、彼らに向ける著者の愛情あふれる眼差しが伝わる1冊となっている。
阪本紀生(東方出版)
著者は元報道カメラマン。現在はフリーの写真家として神戸を拠点に活動している。
神戸の都心や郊外が、街に佇むオブジェ、華やかなイベント、盛りの花々などと共に少し不思議なアングルで撮られ、別の顔を見せている。「ここはどこ?」と謎解きのように見入ってしまう魅惑的な写真集だ。
神戸新聞総合出版センター編集・発行
「六甲・まや」に秘められた意外な歴史、知られざる自然、知っておきたい情報などを取り上げる。
例えば、23番目の疑問、「六甲山の日」ってなに?
平成18年6月に“「六甲山の日」宣言”が発表されたそうだが、続きは読んでのお楽しみ。
楠本利夫(公人の友社)
本書の目的は「国際都市神戸のルーツを探ること」。神戸がいかにして今日の国際都市になりえたか、幕末から明治20年頃に焦点が当てられる。
神戸開港のいきさつや、不明な部分が多い外国領事館の歴史をはじめ、「神戸の鹿鳴館時代」の章では、兵庫県会議事堂で開かれた夜会の様子が面白い。また、明治19年の『神戸又新日報』に掲載された「神戸将来の事業」には、その先見性に驚かされる。その他、現在のハーバーランド付近にあった「弁天浜離宮」についても詳細に述べられている。
出典を見るだけでも神戸の歴史の調べ方がわかり、参考になる。
地震イツモプロジェクト編(木楽舎)
阪神・淡路大震災から12年。本書は、被災した167人を調査し、当時の体験と、日頃の防災の工夫をまとめたものである。
二色刷りのシンプルなイラストに短い文章を添えた親しみやすいつくりだが、一文一文は生の声だけに胸に迫る。地震は“モシモ”ではなく“イツモ”起こりうるものとして気持ちを備えよう、というメッセージが、素直に心に入る。
水嶋元(知道出版)
山脇延吉は、明治8年、北区道場町に生まれた。県会議長、農会副会長など数々の役職につきながら神有電車(現神戸電鉄)を敷設するなど、地方政治家として活躍。県下の治山治水や天災復旧、農業・教育の振興に尽くした。また、昭和恐慌で農民が苦しんでいた時には政府に救済を迫り、全国で遊説して農民の自力更生を訴えるなど、農政改革に魂を傾けた生涯が書かれている。
能福寺 大佛之像
林基春(1858-1903)は、鈴木蕾斎(らいさい)などに師事し、大阪を舞台に活躍した明治の浮世絵師です。ほかにも『大阪名所絵』などを制作しました。
『神戸名所』は明治31年(1898)に刊行された13枚組の版画です。今は目にすることのできない「居留地外国クラブ」をはじめ「能福寺大佛之像」「舞子濱」「神戸駅」「生田神社」といった神戸の代表的な観光地が、色彩も鮮やかに再現されています。画面の中に窓を描いてそこに別の風景をはめ込むという手法は、土産物として好まれたアルバムを意識したものでしょうか。
この度、中央図書館所蔵の貴重資料から78種577点がデジタル化され、デジタル・アーカイブズとして中央図書館内でご覧いただけるようになりました。『神戸名所』刊行から100年あまり…。時の経過を忘れさせる美しさをご覧ください。
生きるために欠くことの出来ない水。最近のミネラルウォーターブームで、店頭で水を買うことも珍しくなくなりましたが、それでも水道は飲み水や生活用水として大きな役割を果たしています。
神戸市全域に水道が行き渡ったのは昭和60年のこと。明治時代から80年以上にわたって拡張工事を繰り返し、給水網が整備されました。現在、神戸の水道水の約8割は淀川水系などから購入したものですが、かつては、中央区の布引貯水池、兵庫区の烏原(からすはら)貯水池、北区の千苅(せんがり)貯水池が市民の生活を支えていました。
明治の開港により、外国人居留地を中心にガス灯や下水道などの西洋技術が流入します。上水道もそのひとつで、明治20年に初めて横浜に近代水道が造られ、函館、長崎と続いて建設されました。
神戸では飲料水の大半を井戸でまかなっていましたが、伝染病が絶えませんでした。また、居留地の井戸水は塩辛く、明治5年には居留地会議が布引の滝から水を引くことを申し入れたといいます。しかし、利権の問題からこの提案は却下され、明治20年に兵庫県が立てた計画も、工事費が工面出来ず中止。水道事業は暗礁に乗り上げていました。
神戸新聞水道尚早論(書き出し)『神戸又新日報』明治26年3月31日
当時、水道の必要性と費用の問題は、市会や世論を巻き込んだ大論争となっていました。賛成・反対論が乱れ飛び、結論が出ないまま相次ぐコレラの流行…。ようやく明治26年に布引水道施設の予算案が市会で承認され、不足した資金は国庫補助や公債を募ることになりました。
ところが、この計画は日清戦争のために頓挫します。戦争が終わり工事にかかった時には、人口増加で計画変更を余儀なくされ、烏原貯水池を追加して給水人口25万人、総事業費は340万円に膨れ上がる始末。資金集めに奔走しながら、建設が続けられました。
このような紆余曲折を経て、明治33年、全国で7番目の近代水道が誕生しました。布引貯水池から約7600戸に給水が始まりました。
この貯水ダム(布引五本松堰堤(えんてい))は、日本初の重力式コンクリートダムです。当時はコンクリートそのものが珍しく、材料不足を補うためにセメントに粗石が混ぜられています。険しい谷に造られたため、最後の山道は人力で資材を運搬したそうです。
工事中の布引貯水池の堰堤(神戸市水道局提供)
続いて明治38年に烏原貯水池が完成しました。貯水池は烏原村を水没させる形で造られましたが、その記憶をとどめるために、村で使われていた石臼がダムの護岸に埋め込まれています。雨の中、烏原貯水池湖畔で竣工式が行われ、不思議なことに起工式・通水式・竣工式と全て雨で、「水神の感応としか思えない」と話題になりました。
給水開始から5年後、水道使用家庭は約2万6200戸になりました。数年後には水不足に陥り、新たな水源として、水量が豊富で水質の良い千苅川が選ばれました。千苅貯水池から上ヶ原浄水場を経て奥平野浄水場に水が送られ、この時、送水管を引いた通りは「水道筋」という地名で残っています。
この第1回拡張工事は大正10年に完成し、新たに5万戸もの家庭に給水することができました。
その後、神戸の水道事業は拡張と補修を繰り返し、戦争や災害を乗り越えて今に至ります。平成10年にこれら3貯水池の堰堤は国の登録有形文化財に、さらに昨年、布引五本松堰堤は重要文化財に指定されました。
千苅堰堤の西側にある「人助天」の碑。天の力が及ばぬなら人が天を助けよう、という意味です。水源や水質が変化しても、安定して美味しい水を届けたいという想いは、今も昔も同じではないでしょうか。