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灘百選・史跡/遺構②

最終更新日:2024年11月13日

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水車新田


江戸時代の中ごろ、新しく田を開くことと水車を使って仕事をすることを目的に水車新田村が作られました。その後、都賀川上流の傾斜面の川水を利用して、灯油用に菜種を搾る目的での水車業が盛んになりました。1800年代初頭以降、幕府の統制で原料の菜種の入荷が減ったことや各地に水車業が興ったこともあり、灘の酒造用の米をつく水車に転換。灘の酒造りに大きな役割を果たしました。大正の末から昭和の初め頃、電気精米、蒸気精米が進むにつれ衰退し、今では地名を残すのみとなっています。

高橋(タカバシ)


明治7年(1874年)5月、神戸と大阪間に鉄道が開通。同40年(1907年)、現在のJR灘駅の約300m東のところにあった旧灘駅から、中央区の海岸小野浜駅にかけて貨物専用レールを敷き、臨港線を分岐させましたが、この鉄道をまたいで造られた跨線橋を「灘のタカバシ」と愛称で呼びました。当時のタカバシは明治町の赤レンガの橋で、風格ある姿が注目を集めました。

西求女塚(にしもとめづか)古墳


万葉集に詠まれ、悲恋伝説の舞台にもなった3世紀未頃の前方後円墳。平成5年(1993年)1月から9月にかけて大がかりな発掘調査が行われ、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)の国王から授かったといわれる三角縁神獣鏡7面をはじめ12面の鏡や青銅器、鉄剣、鉄鉾など貴重な多数の副葬品が出土しました。平成13年(2001年)の調査で奈良県桜井市の箸墓古墳と同様の撥(ばち)形に開く古式の前方部を確認しました。現在、古墳は求女塚西公園として、地域の憩いの場となっています。

摩耶史跡公園


昭和51年(1976年)に摩耶山天上寺が火災にみまわれ、山上の草創の地へ遷寺した跡地を史跡公園として整備しました。摩耶山頂より少し下の旧天上寺の急な石段を上り詰めたところにあり、市街地の眺望が素晴らしい所です。周辺は杉の大木などが鬱蒼と茂り、原生林的な雰囲気に包まれています。太平記に登場する摩耶山城の史跡でもあります。

上筒井線の分岐線

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阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)は1936年、三宮に神戸駅(現三宮駅)を設置し、新線と旧線の分岐点に西灘駅(現王子公園駅)を設置しました。この西灘駅と上筒井駅(もともと神戸駅として、神戸の中心の駅であった)との間を従来の路面軌道を1両の電車が運行する上筒井線として存続させましたが、その後、1940年に廃線となりました。その上筒井線の名残である分岐線が、王子公園駅の東側に残されており、阪神淡路大震災当時は、その分岐線に車両を運び入れること(左写真)で、いち早く王子公園~御影間の運行が再開されました。(もっと灘百選

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