最終更新日:2023年12月26日
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司会:
それでは、12月2回目の市長定例会見を始めさせていただきます。
市長、よろしくお願いします。
久元市長:
よろしくお願いいたします。
今日、お話を申し上げたい案件は1件です。幕末に幕府が神戸に神戸海軍操練所を開設したということは知られておりまして、大体この辺の場所にあったのではないかということは分かっておりましたが、今回、この海軍操練所の遺構だと考えられるこの発掘を行いまして、それがほぼ神戸海軍操練所の遺構ではないか、跡地ではないかということが確認をされましたので、その内容を報告させていただきます。
幕末に浦賀沖にペリー提督が率いる米国東インド艦隊が来航するとか、それからロシア海軍のプチャーチンが率いる艦隊が日本との通商を求めまして大阪湾に来航するとかということで、幕府が相当この対応を迫られることになるわけです。そして、日米和親条約を締結する。その後に、欧米諸国5か国との間での通商条約を締結いたしまして、開国に踏み切るわけです。
そして函館、新潟、横浜、長崎とともに神戸の開港が決まる。開港場に選定されることになるわけです。江戸幕府は、この兵庫の開港に伴いまして、大阪湾の防備が幕府海軍の拠点整備を実施すると。そして、神戸市域では海軍士官の育成、それから軍艦造船の造成の機能を併せ持つ海軍操練所の創設、これが計画をされることになりました。
この神戸海軍操練所は、文久3年、1864年5月に江戸幕府の軍艦奉行並の役職にありました勝海舟の権限によって、幕府が神戸に設置をいたしました施設です。海軍の施設です。この海軍操練所の図面は残っておりまして、面積は5.7ヘクタール、文久4年の1864年2月に竣工いたしました施設です。神戸海軍操練所には、海軍士官養成の施設や軍艦造船の機能を保有すると。艦船の係留所や修繕のために、今で言うドックが併設をされることになりました。
この海軍の操練所には、これは幕府が造った施設ですけれども、倒幕派の当時の人物、坂本龍馬、それから後に外務大臣になって条約改正の中心的役割を担う陸奥宗光など、倒幕派の志士も多くここに集い、学んだというふうにされております。土佐脱藩浪士とか、あるいは長州藩に同情的意見を持つ生徒が多かった神戸操練所は、幕府の機関であったわけですけれども、反幕府な色合いが濃い、こういうふうにみなされておりました。
禁門の変が起き、幕府の揺れ戻しが起きまして、幕府が力を盛り返すことになるというようなことも影響いたしまして、開設の翌年の1865年、慶応元年に閉鎖をされる。非常に短命に終わったのがこの海軍操練所でありました。
そしてその後、1868年、明治維新のときに、神戸が明治維新と同じ年に開港することになるわけです。そしてその後、この海軍操練所の艦船の係留所、ドックなどを土台として神戸港の港湾施設が整備をされ、港都神戸が発展をする。漁村であった神戸が港町として成長を始める。こういうことは知られておりました。そういう大きな歴史の流れは分かっておりました。しかし、この海軍操練所がどこにあったのかという、その遺構は発見されてはこなかったわけです。
神戸市は今、ウォーターフロントの開発を進めておりまして、このウォーターフロントの開発を行うに当たり、文化財の発掘調査を行いました。文化財の発掘調査は、必要に応じて行うわけですけれども、この文化財の発掘調査を行った結果、この海軍操練所と考えられる遺構を発掘いたしました。この神戸海軍所の遺構と見られる施設が発見をされたのは、今回が初めてです。
場所は神戸税関のこの西側、この新港町にかかるこのエリアを発掘調査しておりまして、見つかった遺構の全景と言っていいかどうか分かりませんが、こういう形での遺構が見つかったということです。この遺構で、この遺構のそれぞれの部分については、また後で写真で御覧いただきますが、まず、この遺構で確認できたのは、Ⅰ期と仮に呼んでおりますけれども、開港以前の1864年から65年頃にあったと思われる海軍操練所の石積みの防波堤と考えられる遺構です。これが海軍操練所があった遺構だと考えられます。
その後、海軍操練所の上に、この初期の神戸港が開港をしたと考えられております。これが仮にⅡ期と。これは1868年頃から神戸港の築造が始まるわけですが、この上に初期の第一波止場の石積みが造られた。初期の第一波止場の石積みの防波堤と思われる遺構も、今回発見をされました。そして、このⅢ期に、明治時代中期以前の第一波止場の石積防波堤と信号灯の遺構と考えられるこの施設も、今回発見をされました。
つまり、神戸港は、江戸幕府が設置をした海軍操練所の上に神戸港の築造が行われ、施設が、神戸港が整備されていったということが、遺構という形で確認ができたということだということですね。その第Ⅰ期、第Ⅱ期、第Ⅲ期というのがどういうものなのかというのは、次の写真で御覧をいただきますと、まず第Ⅰ期、この石積みの部分ですね。これは海軍操練所の創設期の石積防波堤だというふうに考えられております。これは専門家の知見も求めまして、この石積みのありようが明治時代のものではなくて江戸時代の石積みであるということが確認されておりまして、これが海軍操練所の創設期の石積みの防波堤ではないかというふうに考えられます。
そして、このⅡ期とⅢ期の第一波止場の石積みの防波堤と考えられるものがここのエリア、あるいはここのエリアに発見をされました。そして、この信号灯、第一波止場のこの信号灯は、これは写真も残っているんですよね。残っています。信号灯は写真が残っているわけですけれども、これは明らかにこの信号灯のこの根本の部分、信号灯の根本の部分と考えられる遺構、これは先ほど申し上げた第Ⅲ期の遺構だと考えられますが、これが発見をされたということで、今回の発掘によりまして、先ほども申し上げましたけれども、幕府の海軍操練所の上に、重層的に神戸市のこの港が築造されて、これがその後、神戸港として発展をしていった。神戸港の原点というのは1868年の開港というふうに思われていましたけれども、神戸港の原点というのは、それよりも少しその前に遡る幕末期の海軍操練所であるのではないか。そのように考えられるということが、この遺構の発掘によって確認をされたというのが、今回の発掘の意義ではないかというふうに考えております。
この遺構につきましては、来年の1月の13日、14日に現地の現場見学会も開催をしたいというふうに考えております。これは神戸港の歴史をたどる上で非常に重要な発見であり、非常に重要な遺構ですので、実際に今後の開発計画との調整を図りながら、どういう形でこの遺構を保存していくのかということについては関係者の間で相談をし、今後方針を決めていきたいというふうに考えております。非常に専門的な分野ですので、また間違っているところがあれば文化財課のほうで、特に私の説明、間違っているとかなかったですか。はい。また質問にも答えてもらうことにいたします。
私からは以上です。
記者:
歴史的にも、坂本龍馬ゆかりの海軍操練所ということで、相当な大発見だと思うんですけども、改めて市長の今のお気持ちをお伺いできたらと思います。
久元市長:
やはり海軍操練所というのは、神戸に幕末、江戸幕府が国防の観点から海軍の創設が必要だというふうに考えた非常に重要な施設で、これは神戸だけではなくて日本の近代史の中でも重要な位置を占めるというふうに思いますし、坂本龍馬や陸奥宗光などがここで学び、坂本龍馬は志半ばで倒れるわけですが、陸奥宗光は不平等条約の改正を行う。この不平等条約の改正は、神戸も重要な舞台になるわけです。これによって居留地が返還されることになるわけですから、非常に重要な役割を果たす人物が学んだ操練所の遺構が見つかったということは、これは非常に大きな意義を持つと思います。
先ほども申し上げましたけれども、その上に重層的に神戸港が築造されていった。こういう開港時の遺構というのは、横浜、長崎、函館、新潟、神戸、この開港5都市のどこの港でも開港時の遺構というのは見つかっていないんですよね。それはやはりその上に次々に施設が造られていった、また開発が非常に頻繁に行われた、工事も頻繁に行われたエリアですから、かつての遺構というのは下に、土の中に深くある上に工事が行われていたので、なかなかこれが見つかってこなかったわけですが、今回ウォーターフロントエリアの開発によって、これが初めて見つかった。
当時の海軍操練所の図面というのは保存されておりまして、神戸市立博物館が所蔵しております。これと照らし合わせる形で、当時の海軍操練所のありようということが浮かび上がってきたということではないかというふうに思います。
記者:
ありがとうございます。
もう1点、新たな神戸のブランドにもつながるのかなというふうに思うんですけど、歴史ファンも興奮するような場所というのが新たに発見されたというのは、今後活用も様々な観点で検討されていくのかなと思うんですけど、現在ぼんやりとではあるんですけど、どのような形で進めていきたいとか、夢みたいな……。
久元市長:
まだそれは未定です。神戸市は文化スポーツ局に文化財保護の専門家もいますけれども、お配りをしておりますが、併せて文化財審議会の会長にも意見を求めておりますから、専門家の知見もお伺いをしながらこれを詳しく調査して、海軍操練所、そしてその後の神戸港の築造というのがどういうふうに行われていったのかということ、そういう歴史をしっかりたどって、これを保存していくということが重要ではないかというふうに思います。活用方策については、まだ関係者の間で協議が整っておりませんので、これからどういう形で保存するのかということを慎重に判断していきたいというふうに思います。
記者:
分かりました。
今後、その調査自体は大規模というか、また調査も進められていくというような形になるんでしょうか。
久元市長:
そうですね。これからさらに調査を進めます。
記者:
よろしくお願いします。
ちょっと細かい話は御担当の方に伺おうかなと思うんですけど、大きく、これ、もともと何があった土地で、今後どういった建物なりが建つ予定の土地なんでしょうか。
久元市長:
これは港湾局のほうから説明、いいですかね。
職員:
この土地は国が所有しておった土地で、国の動物検疫所とか、そういう建物が立地しておりました。
記者:
今後、何か民間の事業者によって開発されていく途中か前段階だったんですか。
職員:
今、その国の土地を一旦市が取得しまして、この土地利用についてはこれから検討していく予定でございます。
記者:
まだ市の土地ということなんですね、これは。分かりました、ありがとうございます。
久元市長:
このウォーターフロントについては順次開発を進めていまして、この遺構が発掘された土地は、先ほど説明がありましたように、神戸市が一旦取得をしています。ところが、神戸市が取得した土地をウォーターフロント全体の開発計画の中でどういうふうに使うのか、民間に譲渡するのかとか、神戸市が自ら使うのかというのはまだ未定でして、遺構が見つかったことによって、この利用計画ということについても、その遺構の存在を前提として考えていく必要があるだろうというふうに思います。少なくともこれを全部埋めてしまって開発するということは適当ではないと思うし、私自身はやりたくはありません。
記者:
先ほどこの操練所が重要という話の中で、開港5港のどこの港でも開港時、開港前の遺構というのが見つかってないというお話があったと思うんですけれども、今回の発見で神戸だけでなくて全国的に見ても一番価値があるというのは、開港前の遺構が見つかったというのがポイントというところですか。
久元市長:
5つの港が開港して、その後この5つの港がそれぞれ発展していく。特にこの開港5港の中で横浜と神戸が日本を代表する港湾として発展していくわけですが、先ほども言いましたように、恐らく港の築造というのは、港の発展に伴って次々に工事が行われていくわけですよね。港のエリアはそこを外面的に外延的に発展するだけではなくて、既にある港についても新たな施設が整備されていく。次々開発が行われていくわけです。そうすると、開港当時の遺構というものは土の中に埋もれたままで開発が進められていくので、そういうこともあって当時の遺構というのは開港5港の中では見つかってこなかった。これが、神戸が開港5港の中で初めて当時の遺構というものが、特に海軍操練所という、日本の近代史の中でも重要な役割を果たす操練所とほぼ確認できるような施設が見つかったということは、これは神戸港の歴史を考える上だけではなくて、日本の港湾、開港の歴史を振り返る上でも意味があるのではないかというふうに感じております。
記者:
ありがとうございます。
あともう1点、今後、文化財として、例えば登録有形文化財とかそういう国の枠組みとかもあると思うんですけれども、そのあたりの申請、答申とかというのはいかがでしょうか。
職員:
それについても、今後どういう形で残すかというのもありますので、それを見ながらまた検討はしていきたいと考えています。
記者:
中身としては、例えば国のに少なくともなるぐらいの価値があるとか、今の時点でどういうふうにお考えですか。
職員:
先ほども市長から御説明がありましたように、この神戸海軍操練所につきましては、神戸だけのものではなくて、やはり日本の近代化を牽引してきた、そういうふうな施設でありますし、そこから学ばれた勝海舟や陸奥宗光という方々は日本の近代化を牽引してきた方々という形になりますので、やはりこれは日本の近代史を代表するものというふうに取られますので、非常に価値は高いというふうに思っております。
また今、文化庁のほうでは、こういう近代の遺跡というものに非常に注目されておられまして、今回の発掘調査についても逐一報告はしております。非常に注目しているということですので、これが国のレベルになるかどうかということはまた先のことにはなるかと思うんですけれども、やはり指定クラスの価値はあるのではないかなというふうに今のところ、私の感想はそういうふうに思っております。
記者:
こちらなんですけども、この遺構というのはどれぐらいの深さにあったのかというのと、あと、Ⅰ期からⅢ期までと言われますけども、現在の神戸港というのは何期に当たるのか、どれぐらいの前のものなのかというのはありますでしょうか。
職員:
大体今の現地表面から約60センチから80センチ下に一番新しい神戸港の遺構が見つかっています。これは第Ⅲ期、説明がありましたが、明治時代中期までの遺構が発見されています。よく使われます標高の表記なんですけど、TPと書いて、東京湾の平均潮位の高さをよく私ども使うんですけども、TPでいきますとTP60センチぐらいが一番上の遺構、第Ⅲ期の遺構になります。この開港以前のⅠ期の辺り、この辺りは、TPでいきますと、大体ゼロあるいは1メートルという。TPゼロ辺りですね。ちょうど海面すれすれというようなところの高さから見つかっております。そういう形になります。
記者:
ということは、現在が第Ⅳ期という形。
職員:
この第Ⅲ期というものは、現代の私たちにも続く遺構と考えていただいたらいいかなと思いますし、大体1900年ぐらいから、今、第Ⅰ、第Ⅱ、第Ⅲ、第Ⅳの新港突堤がありますけれども、そちらのほうにどんどん埋立てが進みまして、どちらかというと、この神戸第一波止場という、神戸開港当初からある一番古いこの港湾施設は新港突堤にバトンタッチするという、大きな役割はバトンタッチしていくという形になりますので、大体1900年ぐらいからはどんどん機能を失っていく。そして、次の港の中心は新港の辺りに変わっていくという、そういうバトンタッチの時期でございます。
久元市長:
このエリアは、港が移っていくと居留地の中に含まれることになるわけですか。そうですね。居留地の中に含まれることになる。
職員:
はい。ちょうど居留地と、それから運上所、神戸税関という、そういう施設があるところに含まれていきます。当然、この港とともにこの居留地も整備されていきますし、この港の発展とともに神戸のまちが国際港湾都市として発展していくという、まさにその時期の遺構というふうに考えていただきたいというふうに思います。
記者:
分かりました。
では、今の、先ほどおっしゃったように、港の発展については、遺構の上にどんどん造っていくということでおっしゃっているのであれば、この第Ⅲ期の上に今の神戸港という形の認識で合っているということでしょうか。
職員:
先ほど開港5港のほかにはあまり当初のものが見つかっていないというふうな御説明でしたけれども、部分的にしか残っていないです。といいますのは、工事をしている最中に、そういうふうな開港時のものではないかというものがほかの都市でも見つかっているんですけれども、私たちの場合は、開校以前の江戸時代幕末から明治時代に至る、そういうふうな遺構を発掘調査、考古学という手法を用いて全て検証してきたというところが非常に価値が高いのではないかなというふうに思っています。その点で言いますと、先ほども市長からありましたように、一旦前代のものを完全に壊してしまうのではなくて、それを土台にして、それを基礎にしてどんどん積み上げていく、新しい港湾施設をどんどん積み足していくというようなやり方をしたのが神戸の港づくり、そして神戸のまちづくりだったのではないかなというふうに思っています。
またこれから新しいウォーターフロントの姿を未来につくっていこうというふうに神戸は考えていますけれども、まさに今のこの新港突堤の上にまだ積み重ねているというような形からすると、今も昔も同じような考え方の中で進められてきたんじゃないかなということが発掘調査の成果からも物語れるのではないかなというふうに思っています。
記者:
時系列と、調査をした主体がどこなのかというのを念のため確認したいんですけれども、まず、開発の一環で発掘をされていたと。発掘をしたのは、これは主体としてはどこになるんですか。
職員:
まず、私どものほうが発掘調査を担当いたしております。文化スポーツ局の文化財課の埋蔵文化財係というところの調査担当者が発掘調査をいたしております。
記者:
埋蔵文化財課さんがここを業者に委託して。
職員:
いえ、直営でしておりまして、安全に発掘調査を進めるために作業だけを委託しているという形になっておりますので、調査自体は埋蔵文化財係のほうが直営で行っております。
記者:
発掘調査をしていて、Ⅰ期、Ⅱ期、Ⅲ期はそれぞれいつ頃に見つかったんでしょうか。
職員:
発掘調査の場合は、上のほうが新しくて、どんどん地層が下がっていくほど古くなります。ですので、時代を逆戻し、遡っていくような発掘調査になるんですけれども、まず一番初めに見つかるのが第Ⅲ期でございます。大体、これは全体の姿が第Ⅲ期という形になります。大体36メートルほどある防波堤と、それからこちらにも、もともと防波堤がありました。Yの字状のような形の敷地を造って、そこを石張りに造成して、そしてそこに信号灯を立てるというふうな、そういう構造が第3期でございます。これが見つかったのが大体7月か8月頃です。そこから調査を進めていって、どんどん下に調査を進めてます。ただ、先ほども申し上げましたように、この遺跡は江戸時代から明治時代にかけて、ずっと、流れるような形で歴史を積み重ねているということが特徴ですので、発掘調査をどんどん進めていくと、上の遺構をどんどん潰してしまうことになりますので、部分的にトレンチを設けまして、下の遺構を探るというような、そういう手法で行っています。そうしたときに、これが、第2期の辺りがこの辺りで、そして第1期が一番下の部分ですね。これはもう、秋の終わり頃、10月頃から第1期の存在が何となく明らかになってきて、そして現在に至っているという形になっている。調査自体は現在も続いておりまして、さらに、様々な構造とか手法を調査するための、調査を精査していっている段階でございます。
記者:
ありがとうございます。
では、夏から秋にかけて3期、2期、1期の順に見つかっていったという理解ですね。これまで、海軍操練所が全体で5.7ヘクタールだというのがこれまでに分かってたことだと思うんですけど、今回、発掘調査をした面積というのは大体どれぐらいなんですか。
職員:
そうですね、大体、海軍操練所の範囲がこの赤い範囲になります。私たち、埋蔵文化財包蔵地といって、まずは遺跡施設を登録してから埋蔵文化財の保護が始まるんですけど、大体5.7ヘクタールというのはこの辺りになります。そして、私たちが今発掘調査している敷地は大体この辺り、この端ぐらいになります。ですので、海軍操練所、この外海と、それから内湾をつくるんですけども、それのちょうど南の端の部分、それを隔する、要するに外海と内湾を隔するような、その位置の防波堤という形になります。大体、面積としては800平米ぐらいが、今、遺構として確認されています。ですので、全体の5.7、6ヘクタールからするとほんの一部という形になるんですけども、それは今まで古図とか絵図とかでしか、その存在、分からなかったんですけども、非常に大規模な石垣の防波堤を築いてたということが初めて分かったという形になります。
記者:
分かりました。
じゃあ、今回見つかったのがその一端というか、ほんの一部かと思うんですけども、さらに面積を広げて、要は調査対象の土地を拡大すれば、また違う遺構が見つかる可能性というのがあるというふうに考えればいいんですか。
職員:
その可能性は十分にあるんですけれども、今回の事業地からは外れてしまいます。事業地の中は海軍操練所の、今の800平米分が顕出されたという形になります。どんどんどんどん外側に広がっていくと思いますが、そこにはもう既にビルが建っている部分もありますし、建物があるところがありますので、また、開発が起こってくれば発掘調査の可能性はあるんですけども、現状では、今の敷地の中でしか発掘調査はできません。その部分については大体800平米という形になります。
記者:
分かりました。
現場見学会を年明け、13、14の土日に実施されるということですが、これ、ホームページでしか予約はできないんですか。
職員:
これにつきましては、神戸市のイベント管理システムというのがございまして、これ、私どものホームページから御案内差し上げるという形になります。事前に申込みをするという形になるんですけれど、場内、非常に狭い部分でございますので、また、周りの交通もちょっと多いところでございますので、まず何時頃に、いついつ、時間帯に、どれぐらいの方が来られるかという把握をしたいということで、このシステムを導入させていただいております。こちらから申込みをしていただくという形になります。
記者:
1点だけ、先ほど、この遺構を埋めるということはしたくないというお話もありましたけど、まだちょっと関係者との調整が済んでいないので、はっきり言いにくいところはあるとは思うんですけども、市長の思いとしては何らかの、この遺構を保存した上で、例えば市民の方とか歴史ファンの方が、例えばこの遺構を見学したりとかですね、できるような施設とか、何らかのそういったものをできたらいいなという思いはお持ちなんでしょうか。
久元市長:
やはり、これだけの遺構ですから、これを何らかの方法で直接見ることができるような保存をし、その上で開発計画を立てるということが望ましいのではないかなというふうに思います。つまり、資料保存という形ではなくて、この遺構はできるだけそのまま保存をして、直接周りから見ることができるような開発計画をつくることができればいいというふうに思いますが、ただ、これは、今、実際に開発計画をつくっているのは港湾局ですから、市の内部での調整ということですから、そこは、専門家の意見を聞きながら、どういう方法が一番有効な保存方法になり、また、ここは神戸市のウォーターフロントの開発を考える上で非常に重要なエリアですから、開発計画との間の調和を取りながら、遺構を直接見ることができるのかという、そういう手法を今後検討していきたいと思います。
記者:
せんだって三田市の田村克也市長が市長の元に来られて、三田市民病院の再編統合に関することで、テーマに面会されたかと思います。その後、面会後、田村市長のほうでは、久元市長とお会いされて、「再編統合に向けた大きな一歩になった」という感想を述べられました。市長の感想、面会された感想や受け止めを伺いたいんですが、いかがでしょうか。
久元市長:
私からは、まず冒頭、「三田市長としてこの再編統合計画について、どういうふうにお考えなっているのかということをお聞かせいただけませんか」ということをお願いして、その後、田村市長からは、「これまでの再編統合計画を進めていきたい。神戸市との協議を再開したい」というお話がありました。私からは、基本協定を既に締結しておりますので、この基本協定で定めている4者の役割分担、あるいは整備候補地も、これも確定をしておりますので、これら基本的事項について、改めて、どういうレベルかは別として、確認をさせていただきたいというお話をして、それは「分かりました」というお話がありました。その上で、この協議を再開していきたいというふうに思います。
次のプロセスは連携協約です。この連携協約については、これは議会の議決も得ていますが、ちょっと時点が、以前の時点ですから、これはまだ最終的に決定したわけではありませんが、改めて議会の議決をいただく必要があるのではないかというふうに考えておりまして、そういうようなプロセスで進めていきたいというふうに思っております。
記者:
ありがとうございます。
基本協定に基づいた協議が今後見込まれると思うんですけれども、いかがでしょう、久元市長としては、本来の形に戻って、やっぱり安堵しているというか、そういうような受け止めなんでしょうか。
久元市長:
安堵という言葉を、心情的にですよ、心情的に安堵という言葉を使うのがいいのかどうかということについては、ちょっと、心情的にですけれども、しっくりこない面もないことはない。これは率直に申し上げたいと思いますけれども。もともと田村市長が当選される前に、相当年月をかけて協議を重ねて、そして基本協定に至ったというこの原点に立ち返って、予定どおり進むことができるという見通しが立った。三田市長との間でこの点について合意ができたということについてはよかったというふうに考えています。
記者:
関連であと最後に1つだけなんですが、今回、田村市長が再編統合の再開を表明されるまで約4か月にわたってこの統合計画の進捗が、言うなれば中断していたと思います。もともと2028年度の開院を目指す、再編統合後の開院を目指すというプランでしたが、やっぱりこの4か月の空白というのが新病院の開院時期とかへの影響は避けられないという御認識でしょうか。
久元市長:
4か月ですから、これを取り返すことは不可能ではないのかもしれないと、これは明言できるわけではありませんが、できるだけ当初の予定どおりに開院できるように作業を加速させていくことが大事だと思います。
記者:
最後に、年の瀬ということもありますので、1年間、今回、スポーツもはじめ神戸もかなり盛り上がって、まちづくりにおいてもですけども、振り返ってみて、市長、今の振り返った思いを、どんな1年だったかなということを伺えたらと思います。
久元市長:
全体としては、スポーツも盛り上がったし、コロナウイルスとの闘いももう4年近くになるわけですが、まだ完全に感染がなくなったわけではありませんが、一段落しつつあるという中で、全体としては明るい1年だったと思います。
ただ、やはり物価の高騰、それから特に人手不足という状況が非常に課題としてあって、これは神戸経済にも影響を与えておりますし、神戸市が進める事業にも影響を与える。この影響をいかに少なくして様々な事業を予定どおり進めていくのかということが課題になると思いますが、こういう目の前の課題を乗り越えて、そして明るい年につなげていきたいと、そういう気持ちを今は抱いております。
記者:
すみません、今の質問に関連なんですけれども、市長、毎年、恒例の1文字をお願いしているんですが、今年も伺いたいなと思うんですが、いかがでしょうか。
久元市長:
そういう質問が出るのではないかと思って、もう最初に用意して申し訳ありません、ここで書けばよかったんですけれども。
やはり賞讃の「讃」ですね、たたえるという字を今回は書かせていただきました。趣旨は、オリックス・バファローズ、阪神タイガースの優勝、阪神は日本一になり、11月23日には優勝パレードが行われて、多くの皆さんが、神戸市民も含めてこの優勝をたたえるという声が広がったと思います。そして11月25日には、ヴィッセル神戸が悲願のJ1リーグ優勝を成し遂げました。そして12月3日には、夜になりましたけれども、寒い中を多くの方々がメリケンパークに詰めかけて、そして優勝を祝いました。そのとき、港町神戸をたたえる神戸讃歌が高らかに歌われました。私も神戸讃歌を一緒に歌いました。さらに言うならば、このスポーツの世界では坂本花織選手が、今年、日本選手権、グランプリを優勝されて、来年はモントリオールで開かれる世界選手権で3連覇が期待をされている。坂本選手をたたえる声も、これは神戸だけではなくて日本全体でも大きかったのではないかと思います。
スポーツの世界はそうですけれども、あと、先ほども申し上げましたが、コロナウイルスが2類から5類となり、まだ感染がなくなっているわけではありませんが、神戸市民はオール神戸でこの危機を乗り越えつつあると思います。医療従事者をはじめ、たくさんの皆さんがコロナとの闘いに参加していただいて、そして、コロナで亡くなった方もかなりいらっしゃるわけですが、たくさんの皆さんのおかげで多くの命が救われ、多くの方々の苦しみが和らげられたというのがこれまでの歩みだったと思います。そのような全ての方々に対して感謝を申し上げるとともに、そういう御貢献や、あるいは御努力をたたえる気持ちを抱きながらこの字を書かせていただきました。
記者:
ありがとうございます。
ちなみに、その文字はすぐ思いつかれたんでしょうか。どれぐらい時間がかかったんでしょうか。
久元市長:
いや、幾つか案は自分の中に浮かびましたけれども、やはり、先ほど申し上げたような方々をたたえる気持ちというのがごく自然に湧いてきたので、この字を選びました。